9月10日

2002-09-10 mardi

ニューヨークのテロ事件から一年。
去年はパリのホテルの一室でニュースを聞いた。翌日の新聞(フィガロ紙)の見出しは Nouvelle Guerre(新たな戦争)であった。
あれから一年、ずいぶんメディアの論調が変わった。だいたい日本のメディアは「雪崩打て」同じ方向にゆくことが多いが、テロ事件についても、ほとんど「国民的合意」が出来てしまったようだ。
それは「テロリストも悪いが、そもそもテロルの原因を作り出したのはアメリカの世界戦略ではないのか」という「嫌米」気分の伏流である。
私がものごころついてから、これほどまでに国民全体に「嫌米」気分がみなぎり、彼の国の大統領の知能程度がこれほど疑われたことは過去に前例がない。(ジョンソンもニクソンも日本人には嫌われたし、ジミー・カーターもフォードもずいぶん政治センスのなさを指摘されたけれど、ジョージ・ブッシュほど嫌われ、かつバカにされたアメリカ大統領はいない)
こういうのはマルクス主義の最後と同じで、別にアメリカ政府が決定的に何か政治的オプションをミスったとか、アメリカの世界戦略の本質的な誤謬が証明されたというのではなく、アメリカという国がこれまで発していた「オーラ」のようなものがゆっくり消えつつある、ということを意味している。
「何となくすごそうな国」から「何となくバカそうな国」への「イメージ」のシフトというのは、別に個別的な原因があるわけではない。
あくまで「何となく」なのである。
「アメリカでは、こうなんだよ、だから・・」という物言いに対して、「アメリカではそうだからって、だから何なんだよ」という口答えをされると、絶句してしまうということがいろいろな局面で起こりつつある。
いままでは、そういう「口答え」はあまりする人がいなかった。言ってもだれも耳も貸さなかった。
アメリカは万人にとってのサクセスモデルだということに「なっていた」からである。
90年代の議論でよく使われた「普通の国」ということばは要するに「アメリカみたいな国」ということを意味していた。
「アメリカ的」であることが「ふつう」であることだと言い募っても誰からも文句が出ない時代が「パックス・アメリカーナ」の時代である。
「アメリカ的って、ことは要するにアメリカ的ってことだろ?」という当たり前の定義が違和感なく共有されるとき、「アメリカの価値観がドミナントな時代」は終わる。
いまアメリカが世界の超大国である時代が終わりつつある。
もちろん、基本的な軍事的、経済的、文化的リソースの膨大なストックがあるから、もうしばらくは持つだろうが、すでに「落ち目」にかかっていることはわが邦と変わらない。
アメリカは先進国ではレアな「多産の国」である。特別出生率は2・0を超えている。それは「移民たちが多産」だからである。ということはあと数十年でアメリカは「白人の国」ではなくなるということを意味している。
ヒスパニックとブラザー&シスターたちとエイジアンが支配的なエスニックグループになるからである。
彼らがメイフラワー号的なエートスと、フロンティア・スピリットを継承すると私は思わない。
グリフィスの『国民の創生』を見ると分かる。
1916年製作のこの映画は当時のアメリカ人の「国民的統合」への意欲をみごとに図像化しているが、その意欲をドライブしているのは「ニグロにアメリカを渡すな」というルサンチマンだ。
ハリウッドはほんの80年前まで「クー・クラックス・クラン」が「怪傑白頭巾」である映画を作っていたのである。
そのあとさすがにあまりに差別的だというので、「騎兵隊がインディアンを殺す」映画にシフトした。そのうちに先住民を虐殺にするのもいかがなものかというので「米兵がナチを殺す」映画を大量に作った。「米兵が日本人を殺す映画」は国内の反日感情が高まるといまでも作られる。80年代からは「アメリカ人のヒーローがアラブ系テロリストを殺す」映画が主流である。
そういう国なのである。
もうそろそろ「そういうこと」を止めた方がよいのではないかと私は思う。
いつまでも「メイフラワー号」とジョージ・ワシントンで国民的統合を維持することはできないだろう。
だが、アメリカにはそれに代わる統合軸が存在しない。
だから、遠からず国民国家としては解体するだろう。
あまり遠い先のことではないように私は思う。