9月9日

2002-09-09 lundi

少子化傾向が止まらない。
89年に「1・57ショック」と言われたが、その後も出生率の下げは止まらず、ついに2001年で1・33と過去最低を記録した。(これは合計特殊出生率の数値。一人の女性が生涯に産む子供の数のこと。)
たぶんこの傾向はこれからも止まらず、21世紀中に1・0を切るだろう。
私のまわりを見回してみても、30代の入っても、結婚もしないし、子供も産んでいない女性の数がどんどん増えている。
もちろん理由は「一夫一婦制がダメになった」ことに尽きる。
結婚して幸福な人生を送りましたとさ、めでたしめでたし人たちというのがまわりにぜんぜんいないんだから、あとが続くはずがない。
「亭主は要らないから、子供だけ欲しい」ということを言う女性は多い。逆に「結婚はしたくないけど、子供はほしいっすね」というようなことをほざく若者もいたりする。
だが、いずれも私は実例を身近に知らない。
「タネだけちょうだい」「腹だけ貸して」といわれて、「うん、いいよ」と気楽に応じるような人はあまりいない。
自分の子供は自分で育てる。
これがいまのところの基本である。
とりあえず「タネだけ」「腹だけ」の単機能のマーケットはいまだ成熟していない、と言わなければならない。(今後も成熟するかどうか)
となると、「タネ」と「腹」のユニットで子供を産み育てるというのが基本型になるわけだが、これが「一夫一婦制」といわれるものである。
その一夫一婦制が現在、みごとに崩壊過程にある。
幸せそうな夫婦、愛し合い尊敬し合っている夫婦、若い人たちが結婚生活の指針としたがるような夫婦、そんなものはもう「天然記念物」的にレアである。
むかしだって相性の悪さは似たようなものだったかもしれない。
だが、昔の人は結婚生活にあまり多くを期待していなかった。
だから、多少問題があっても「ま、こんなもんだわな」でやり過ごしてきたのである。
いまは違う。
意見の合わない夫婦、趣味の合わない夫婦、性格の合わない夫婦は、いくら憎み合ってもよいし、人前でどれほど相手に対する嫌悪感を表情に(お望みなら言葉に)出してもよい、むしろ「そうするほうが人間として誠実な生き方である」ということが常識となっている。
当然のことだが、人間、おたがいに本音のところを包み隠さず公開し合ってしまえば、この世に「愛するに値する人間」「尊敬するに値する人間」などほとんどいなくなってしまう。
「相手にあまり嫌われたくない」ので、本音を呑み込み、正体を隠し、人格の改造にこれ努めてきたからこそ、私たちは何とか愛し合い、信じ合ってこられたのである。
それを止めてしまって、その上でいっしょに仲良く暮らすなんて不可能である。
結婚生活の基盤は夫婦の愛情と信頼である、というのは「きれいごと」である。
愛情と信頼ほど頼りにならないものはない。
だからこそ「制度的枠組み」でぎりぎり締め上げておいて、愛情も信頼もなくなっても、「愛しているふり」「信じているふり」をしていれば、なんとか結婚生活が維持できるように工夫されていたのである。
その「締め付け」をみんなでよってたかって壊してしまった。
「純粋な愛情と信頼だけが夫婦を結びつけているべきであって、打算や世間体で結びついているべきではない」というのは正論だけれど、純粋な愛情と信頼「だけ」を条件にしたら、まず銀婚式を迎えられるカップルは存在しない。
夫婦の絆を「打算」から「愛情」に、「夫婦でいること」の理由を「わりと便利だから」から「宿命的な愛で結ばれているから」にシフトしたことによって、一夫一婦制は崩壊してしまった。
仕方がない。誰の責任でもない、ロマンティックな夢を見た私たち全員の責任である。
しかし、私たちは一夫一婦制以外に子供を適切に産み育むシステムというのをまだ有していない。
それゆえに出生率がどんどん下がるのである。
となると出生率回復のために、打つ手は二つしかない。

(1)壊れかけた一夫一婦制をなんとか支える
(2)一夫一婦制はあきらめて、それ以外の出産育児システムを創造する

このどちらかだ。
メディアの論調は、まだどっちつかずである。
朝日新聞生活面的な常識は「夫が仕事に没頭し、妻がひとりで家事全般を担当するという分業体制が育児を困難にしているのだから、男性がもっと家事労働を手伝えるように、日本社会が意識を変えるべきだ」というものである。これは(1)の選択肢から派生する提案のひとつである。
しかるに、そう言う一方で、同じメディアがとなりの紙面では女性の社会進出、雇用機会の拡大を要求しているわけだから、これを総合すると、「夫婦の両方が等しく賃労働し、両方が等しく家事労働をする」というのが当今の一夫一婦制の「理想」だということになる。
しかし、「夫婦の両方が等しく賃労働し、両方が等しく家事労働をする」協業夫婦は、どう考えてみても、「夫が働き、妻が家事をする」分業夫婦よりも「子供を産み育てる」ユニットとしては機能的ではない。それは、「社員全員が午前中は現場でものを作り、午後は営業に回り、夕方から経理をやる」企業と、「製造と営業と総務を、別々の社員が担当する」企業では、どちらが業務の効率がよいかを考えればすぐに分かる。
どんな種類の仕事であれ、全員が「同じこと」をするより、「手分け」してやる方が効率的だ。
自分の担当の「割り前」は自分向きじゃないから、そっちの仕事と替えてくれないか、という発想はありうる。だから、妻が外で働き、夫が家で子守りをするというのは、双方が適性をただしく判断した上でのことならば、クレバーなオプションである。
しかし、それを実践している夫婦は非常に少ない。
なぜなら、女性の職場進出の理由は、ほとんどの場合、妻の方が「稼ぎが多くて」、夫の方が「家の切り盛りがうまい」という合理的な理由による担当の「入れ替え」のためのものではなく、「夫の仕事の方が楽で面白そうだから、そっちの仕事をやりたい」という感情的理由によるからである。
メディアはそのような要求に理ありとした。
ということは、賃労働を「愉しい仕事」、家事労働を「苦しい仕事」と差別化することについての社会的合意が成り立ったということである。
そのような合意があるところで、誰が好きこのんで「苦役」を選ぶだろうか。
家事労働、育児は「苦役」である、ということについての社会的合意はすでに根づいている。問題はこの「苦役の押しつけ合い」をどう調整するか、ということに限定されている。
そこで、メディアは、男性労働者がもっと家事に専念できるように企業が労働環境と意識を変えるべきだと主張する、だが、そんなことをしても何も変わらないことはみなさん先刻ご承知のはずだ。
単純な話、ではサラリーマンの賃金を引き上げたら、彼らは残業するのを止めて、家事労働に従事すべく午後五時になったらまっすぐ家に帰るだろうか?
そんなことはありえない。
彼らは残業を止めないだろうし、仕事のあとに居酒屋で同僚相手に悲憤慷慨することも、土日はゴルフ通いをすることを止めないだろう。
それは彼らの給料を5倍にしても10倍にしても変わらない。
給料を上げれば、彼らはますます「会社好き」になるだけである。
サラリーマンを家に戻して家事をさせる方法は一つしかない。
労働条件を下げることである。
賃金が大幅にカットされ、残業代もつかず、帰途に酒を呑む小遣い、パチンコ代もゴルフ代ももなくなれば、いかほど仕事好きなサラリーマンも仕方なくまっすぐ定時になったら家に帰るだろう。
他にも「不公平な勤務考課を行う」とか「みんなでいじめる」とか「仕事を与えない」とか、サラリーマンを「会社嫌い」にさせる方法はいろいろある。
だが、そんなことをすべての企業が実践していたら、サラリーマンが家に帰りつく前に、日本経済が崩壊してしまうだろう。
育児休業を取る男性は0・42%。
この低さは育児休業を取ると、そのあと出世できないという企業の側の意識の低さが原因だとメディアは非難する。北欧なんかでは、男性がどんどん育児休業をとっているではないか、と「あちらでは」的論議がかまびすしい。
だが、それ以前に、「出世することがよいことだ」と思っている人間たち(メディアで正論を吐いている方々も含めて)の「意識の低さ」は問題にしなくてよいのだろうか?
要するに、いまの日本人は(サラリーマンも主婦もメディアも)全員が「金を稼ぐことは快楽だ」、「家事労働は苦役だ」という点については合意しているのである。
私はこのような合意を覆し、「金を稼ぐことは苦役であり、家事労働は愉悦だ」というふうに発想を切り替えることこそが問題解決のためのもっとも効果的なプロパガンダだとと思っているが、私に同意してくれる人はほどんどいない。(私の知る限りでは、村上春樹だけである)
だからいまの議論というのは、両性どちらもやりたくない苦役をどうやって押しつけ合うか、という少しも楽しくない主題をめぐっているわけである。議論が盛り上がらないのもうなずける。

そこでオプションの(2)である。
つまり、いままでの議論はすべて「一夫一婦制」の家族において育児がなされるべきであるということを前提としている。
「もう、一夫一婦制はあきらめよう」という本音は当然あがってよい。
ほかの方法で子供を産み育てようじゃないのというのは頭の切り替え方としては悪くない。
この場合、いちばん確実に出生率を上げる方法は「育児という苦役の相当部分を国家が担当する」ということである。
みなさんどんどん好き放題に子供を産んで頂く。育てるのがたいへん、めんどう、嫌いという人の子供はどんどん公立の施設で受け容れて、国費で育てる。
育児の苦役から男女を開放し、全員が「金を稼ぐ快楽」にフルタイム没頭することのできる夢の「サラリーマン社会」が実現するわけである。その分税収もふえるから、公立の託児所や保育園、養護施設、孤児院などもばっちり充実できて、みなさん「こころおきなく子供を生んで、『あとはよろしく』と放り出す」ことができるようになる。
こうすれば、出生率はあるいは上向きになるかもしれない。きっとなるだろう。
すばらしい未来社会だ。
でも、私はこんな社会にはまったく住みたくない。
いずれにせよ、刻下の事態を回避する抜本的名案というものは存在しない。
「ダメ」なものは「ダメ」なのである。
唯一私が可能性を見るのは、「一夫一婦制の古典的再編」である。
「愛し合っているふりをすること」と「愛し合っていること」は実は制度的には同じ意味なのだということに気づいて、「穏やかで睦まじい夫婦」を「偕老同穴」のその最後まで、本気で「演じ切る」ことに有り金を賭ける若い人たちがこの先出てくるかも知れない。
とりあえず、そういうカップルなら、この破綻しかかった制度をなんとかやりくりして、しばらくの間だけ、まっとうな家庭を作り、まっとうな子供を産み育てていけるだろう。
そのようなリアルでクールな若者の出現に期待するしかないと私は思っている。
それ以外の少子化傾向阻止政策はことごとく烏有に帰すであろう。