9月2日

2002-09-02 lundi

ウチダは無数の人間的欠点の集積がそのまま人格化したような人物であるが、一つだけよいところがある。
それは「嫉妬心」というものを持たないということである。
持たないというよりは「欠落している」というべきだろうか。
他人の持ち物を見て「ああ、私もあれが欲しいなあ」とか、他人の幸福そうなありさまを見て、「私もあんなふうにハッピイな生活がしたい」と思ったことがない。
別に私自身が欲しいものはすべて手に入るほどにパワフルでリッチな人間であったからではない。(そんなはずがない)
欲しいものはたしかにあるのだが、それは「他人が持っているのを見て」欲しくなるのではなく、端的に「それ」が欲しいのである。
ことは単純に「それ」を私の関係であり、他の人は関係ない。
通常、人間的欲望は模倣欲望であり、人間は「もの」ではなく、他者の欲望を模倣するとコジェーヴもラカンもルネ・ジラールも言っているが、たまに私のように他者の欲望にぜんぜん興味がない人間もいたりするのである。
なぜそういうことになるのか。理由をご説明しよう。

嫉妬や羨望というのは、通常、「同類」を対象とする感情である。
つまり、私と同じような年齢で、同じな社会的立場で、同じような仕事をして、同じような生活をしている「均質的集団」の中から、比較対象を見つけて、その人と自分を比較して、「彼はあれ(権力、名声、プール付きの邸宅、美人妻、ジャガーなどなど)を持っているのに、私は持っていない(うう、くやしい)」というふうに感情が動くのが嫉妬や羨望である。
だから自分と「同じグループ」に算入される可能性のない人間に対しては、決して嫉妬や羨望の情というものは起こらないのである。
彼らがどれほどゴージャスな生活をしていようと、私がブルネイ国王とかビル・ゲイツとか村上龍とかを羨ましく思うようになるということはありえない。
ということは、嫉妬心が希薄な人間というのは、この比較対象を含む集団が「小さい」人間である、と言い換えることができる。
私が嫉妬心を持たないということは、私が「私の同類」と思いなしている人間が非常に少ないということを意味している。
私も人の子、もちろん権力、名声、プール付きの邸宅、美人妻、ジャガーなどなど「差し上げる」と言えば「頂くにやぶさかではない」一介の煩悩の犬である(「美人妻」に関してはとりあえず熟慮させていただくが)ただ、「私の同類」のみなさんは、誰一人そのようなものをお持ちではないで、嫉妬心の起こりようがないのである。