8月29日

2002-08-29 jeudi

終日がりがりと原稿を書く。
フェミニズム言語理論をがりがりと批判するたいへんに性格の悪い論考を書いているのであるが、ウチダは「邪悪なエクリチュール」を選択すると、思考速度が加速されて、「よくこれほどまでに、底意地の悪いことが書けるなあ」と読んでいる本人が感動するほど邪悪なフレーズがわき出てくるのである。
自分の性格の根本にある抑制しがたい攻撃性を確認するのはこういうときである。
しかしこれを押さえ込もうとしてはならない。
こうやって適宜攻撃性を発散させてゆくことで、ウチダはかろうじて「市民」としての日常をまっとうしているのである。
どうせ、日本語で書かれたフェミニズム批判なんかイリガライもフェッタリーも読むはずないんだから、私の悪口の直接の被害者というのは、存在しないのである。
もちろんイリガライやフェッタリーのファンの方は「むかっ」とするであろうが、それくらいは我慢してもらわねばならぬ。
私だってイリガライにレヴィナス老師が「非倫理的」と罵倒されたときにはずいぶん「むかっ」としたが、べつに本人のところにまで文句を言いにいったりはしなかった。ただ機会あるごとに「イリガライはほんまアホでっせ」とあちこちで陰口をしまくるという陰湿な仕返しをしているだけである。それくらいは勘弁してほしい。

今日は一日、ジュディス・フェッタリーの『抵抗する読者』というフェミニスト批評理論の本を批判している。
この本がどれくらい重要なものなのか寡聞にして知らないけれど、私が尊敬するただ一人フェミニストであるショシャーナ・フェルマンが「フェミニストの愚かさの恥ずべき典型」として紹介していたので、興味を引かれて買ったのである。
フェッタリーの悪口は今日一日書きすぎたのでもう書かないが(読みたい方は『フェミニズムについて私の知っている二三の事柄』(仮題)をお買い上げ下さい)、たいへん気になったのは、この人がフランスにおける1950年代以降のテクスト理論の展開をまったく気にかけていないということである。
どうもブランショもバルトもラカンもレヴィナスもフェッタリーは読んでいないようである。(読んでいたとしたら、何が書いてあったのか理解できなかったのだ)
この本で彼女が理論的根拠として引用するのは、アメリカの「業界人」だけである。
アメリカの大学のアメリカ文学研究者たちのコミュニティだけが「世界」だとこの人は思っている。(その点で、彼女はジョージ・ブッシュとよく似ている。)
驚くべきことに、このフェッタリーの本は、日本のアメリカ文学研究者のあいだでは一種の「教科書」のようなものとして読まれているらしい。(その点で、この諸君は日本政府とよく似ている)

モーリス・ブランショが「文学と死の権利」を書いたのは1949年のことである。
ロラン・バルトが「作者の死」を書いたのは1968年のことである。

どちらもずいぶん昔のものであるが、いまだに私は読むたびに新しい発見がある。
フェッタリーにこの二つのテクスト論を超えるものを書けとはいわない。(そんな贅沢なことを言っているわけではない)
でも、せめて理解しようと努めてはもらえないだろうか?(両方合わせても50頁程度のものなんだから)
理解がむりなら、せめて、「そういう理論がある」ということを知っておいてはもらえないだろうか。
知っていたら、「抵抗する読者」などという「近代的な」読解装置を思いつくはずがない。

そうやってぷりぷり怒っているうちに本が一冊書き上がってしまった。
『ラカン/ヒッチコック』、『おじさん的思考2』、『口述筆記本』に続いて、この夏休みに入って本を4冊仕上げてしまった。
われながらハイペースである。
おかげで、来週からはいよいよレヴィナスの『困難な自由』の翻訳である。
私にとってレヴィナス老師のフランス語を日本語にするのは、心安らぐ、それでいて高揚する至福の時間なのである。
今週の私はかなり「剣呑な人物」であったが、来週私に会うひとは温良な笑顔でをうかべている「他者に優しい」ウチダを見出すであろう。老師の恩徳である。