8月28日

2002-08-28 mercredi

角川書店の「口述筆記本」のために、終日神戸のシーガル神戸会議室に「カンヅメ」になる。
要するにふだんゼミ生や合気道の諸君を相手に話しているようなことをしゃべり続けたのをテープ起こしするということなのであるが、時間がハンパではない。
午後2時半スタートで、最終的にテープを止めたのが、午後11時半。「グリルみやこ」での夕食中も、ジャック・メイヨールでの打ち上げ中もずっとテープが回っていたので、その間9時間しゃべりっぱなしだったわけである。
さすがに最後の頃は「唾液」が不足してきて、舌の回転が「焼け付いて」きた。

しかし、どうして「いま思いついたばかりのこと」をこれほどの確信を込めて「前から考えていたことですが・・・」などと前置きして縷々語ることができるのであろうか。
この術だけは、自分で駆使しておきながらいうのも変だが、どうして使えるのか本人にも分からない。
「口先で考えている」ということなのであろう。
私のそのような「口から出任せエクリチュール」の本質を看破し、「ウチダは書かせてもしゃべらせても、どうせ同じだ」と気づいてこの本の企画を立てた編集者はけだし具眼の士と言わねばならない。

しかし、口から出任せの中になかなか面白いアイディアもあり、家に戻ってからさっそく机に向かって「アメリカン・ミソジニー」なる一文を草する。
これはアメリカ文学アメリカ映画に横溢する女性嫌悪(misogyny)のよってきたるところを、遠く西部開拓時代の「男女比率の不均衡」に求めた変痴奇論である。
生涯一度も「女にパートナーとして選ばれる」という幸運に浴すことなく、そのDNAを地上に残さぬまま死んだ無数の開拓者(おそらく数百万に達するであろう)の「怨念」を鎮めるためにアメリカ文化が創り出した「喪の儀礼」、それが「女性嫌悪神話」である、という解釈である。
男ばかり何百人もいる場所(フロンティアの砦とか、金鉱とか)に女性がひとり来た場合、彼女をめぐって、男たちははげしい競合を展開したはずである。
すごい高倍率である。
一人の女性の「性的リソースの継続的かつ全面的占有権」はほとんど絶望的に困難な夢であり、ひとにぎりの超ラッキー男以外のすべての男は「女に選ばれなかった」というトラウマを抱え込むことになる。
これはきつい。
男だけで暮らしていたらこういうトラウマはない。男だけで支え合いながら、辺境で静かに死んでゆくことができる。(ジェームズ・フェニモア・クーパーの描いたレザーストッキングのようなフロンティア開拓者たちは、男だけの世界に完全に自閉しているから、こういうトラウマとは無縁だ)
しかし、男だけの世界に女が一人でも入ってきて、それが「男を選ぶ」ということになると話はがらりと変わってしまう。
選ばれた男と選ばれなかった男のあいだ差は決定的かつ致命的だ。
それまでの男たちの世界における「価値のものさし」であった諸能力(腕力、剛胆、狩猟の才、動植物についての知識、技術、酒量、リテラシーなどなど)は無視され、男たちには理解しがたい基準によって、男たちは差別化される。
「女に選ばれなかった」ということは、それまでの開拓者として孜孜としてその獲得につとめてきた人間的価値が否定されたということを意味する。
このような事態を放置しておけば、西部開拓をドライブしているエートスそのものにひびが入るおそれがある。
もちろん適正数の女性を継続的にフロンティアに送り出すことが出来ればまるで問題はないのであるが、それが「できない」からこういうことになっているのである。
そこで人々はとりあえずひとつの物語を創り出す必要に迫られたのである。
それは次のような物語である。

「女は必ず男の選択を誤ってクズ男を選ぶ」
「それゆえ女は必ず不幸になる(ザマミロ)」
「あんなバカ女のために仲間を棄てたりしなくて、ほんとうによかったぜ」
「やっぱ、男は男同士でいるのが一番だよな、な」

という一連の話型なのである。
このような定型的な説話原型を私は「アメリカン・ミソジニー話型」と名づけようと思う。
ハリウッド映画は、その出発の時から、この話型をほとんど強迫的に反復してきた。

「男たちの集団に一人の女が現れる。彼女は男を『選ぶ』権利を与えられている。男たちは彼女をめぐって競合する。最終的に一番利己的で、ワイルドで、色欲過多の男が彼女をゲットする。その男は(利己的でワイルドで色欲過多なので)当然ながら、やがて彼女を棄てて、男たちのもとに戻ってくる。女は不幸になり、男たちの共同体は原初の秩序を回復する。めでたしめでたし」

これが「アメリカン・ミソジニー物語」の定型である。
その代表作が『私を野球に連れてって』。(これは私の見るところ、「アメリカ映画史上最悪の女性嫌悪映画」である。)
『カサブランカ』から『明日に向かって撃て』まで、『ウェストサイド物語』から『バンディッツ』まで、同じ話型の物語は枚挙に暇がない。
しかし、これを咎めてはいけない。
物語にはそれなりの歴史的淵源というものがあって生まれてくるのである。
これらの女性嫌悪物語は、「『女に選ばれなかった』というトラウマを抱えて死んだ」無数のフロンティアの男たちの「怨霊」を鎮めるための物語装置だからである。
女性に恨みがあるわけではなく、怨みを残して死んだ男たちの「祟り」が怖くてこういう話をでっち上げているのである。
これは巨大な「墓碑」なのである。
アメリカのフェミニスト批評理論は、ひさしく「アメリカ文学は骨の髄まで女性嫌悪的である」と主張している。
私はこの主張に100%同意する。
ただ、フェミニストたちが「なぜ、アメリカ人の作る物語はこれほどまで女性嫌悪的なのであろうか?」という問いを自分に向けないことを不思議に思うのである。
彼女たちは「男たちの作る物語はすべて女性嫌悪的である」というかたちで「アメリカの問題」を一挙に「人類全体の問題」にすり替えてしまう。
そして、ご存知のとおり、「アメリカ・ローカルの問題」を「世界全体の問題」であると組織的に錯認するあの国の人々の民族誌的奇習のことを私たちは「グローバリズム」と呼んでいるわけなんだけれど。

アメリカ男性はアメリカ女性が嫌いである(これは真実である)
ゆえに、すべての男性は女性が嫌いである(これは真実ではない)

このような推論のしかたをアリストテレスは「特殊例を一般化する虚偽」と呼んでいる。
ジュディス・フェッタリーは平然とこの fallacia accidentis を犯すが、それは「アメリカ国民はサダム・フセインが嫌いである」という命題と「世界中のひとはサダム・フセインが嫌いである」という命題とのあいだに「飛躍」があるということを、いくら教えても理解できないジョージ・ブッシュの頭の悪さと本質的なところで深く通底するもののように私には思えるのである。
というようなことを私は書いたわけだが、これをもしフェッタリーが読んだら色をなして怒るであろう。

「私をジョージ・ブッシュといっしょにしないでよ! アメリカ人といったって、いろいろあるんですからね!」

ね、頭に来るでしょ? そういうふうに乱暴に「ひとくくり」にされると。
でもさ、そういうふうに「ひとくくり」にされるのがいやで、「オレを、ほかの男をいっしょにしないでくれよ、男といったって、いろいろあるんだからさ!」と抗議したのに、ぜんぜん耳を傾けてくれなかったんだよ、キミたちは。これまで。ずっと。
やなもんでしょ?
自分が同じことされると。

という趣旨の論考である(全部書いてしまったが)
この「鎮魂論」はわりと「いける」のでは、と思っているのだが、もしかするともう誰かアメリカ史の方が指摘していることなのかもしれないので、知っている人がいたらご教示下さいね。