朝夕涼しくなったので、眠りが深い。昨日、今日と久しぶりに8時間ノンストップで爆睡した。(夏の間はいつも明け方に寝苦しくなって眼が醒めた)
しかし、よく寝るよな。(昼飯のあとは、必ず昼寝してるし)
そのせいか、一日が非常に短い。
起きて、朝飯を食べて、原稿を書いて、昼飯を食べて、昼寝して、原稿を書いて、晩飯を食べて、映画を見て、本を読みながら寝る・・・という恐ろしく単純なルーティン。
一昨日からフェミニズム言語論についての論文を書き続けている。
前にも少し書いたけれど、英米のフェミニズム言語論はボーヴォワールの女性解放理論とラカンの分析的対話の理論を重要なファクターとしている。その、ボーヴォワールとラカンはいずれも1930年代にコジェーヴのヘーゲル講義に強い影響を受けてその思想の骨格を形成した。だから、現代のフェミニズム言語論にはヘーゲルのスキームがほとんどそのまま継承されているのであるが、どうもそのことに当のフェミニストたちはあまり自覚がないようである。
ヘーゲルの人間学というのは、「疎外の弁証法的揚棄」についてかなり楽観的な考え方をするのだけれど、その楽観性は現代フェミニズム批評理論にも継承されていて、「女として語る語法の奪還」とか「わたしたち固有の領土を取り戻すために」とかいうヘーゲル的タームが随所に見受けられる。
フェミニスト諸君は、「家父長的文化」ということをよく言うけれど、「家父長」の代表格であるヘーゲルの人間学を自身が復唱していることについてはどのようにお考えなのであろうか。まさか、その事実を知らない・・・ということはないよね。
勉強ついでに、ジュディス・フェッタリーの『抵抗する読者』というフェミニスト批評理論の本を読む。
いろいろアメリカの男性作家の作品が俎上に載せられて、それらがいかにエゴイスティックで不誠実で権力的で性差別的な男性を描いているかをあざやかに分析し、アメリカ文学のカノンとされているものが、いかにイデオロギー的なものであるかを告発している。
だが、ちょっと、待って欲しい。
フェッタリーさんによれば、これらの作品(『武器よさらば』とか『グレート・ギャツビィ』とか)は「エゴイスティックで権力的で性差別的な男性」を描いている。
もしも、小説に出てくる男性主人公が、全員死ぬほどいい人で、献身的で愛情深くて性差別意識のかけらもない人であるかのように描かれているというのなら、そういう「嘘」を書いた小説が「不誠実」だという断罪はありだと思う。
だけど、現実はそうではない。
小説に出てくる男はみんな「ゴミ」男で、その欠点をさらしまくっている。
で、現実にアメリカの男はみんな「ゴミ」男なのである。
たしかこの本はそう主張していた。
だったら、これらの作品は正しくアメリカ的現実の実相を描いた「誠実な作品」だということにはならないのだろうか。
例えば、ジェイ・ギャツビィはご指摘のとおり、成熟することを拒否しているし、生身のデイジーではなく、自分で勝手に作り上げた幻想のデイジーを愛しているバカ男である。
でも、『グレート・ギャツビィ』は、どう読んでも、そういうギャツビィの性幻想をほめたたえている本じゃなくて、「ギャツビィはバカです」ということを淡々と書いている本である。
例えば、この本の中のクライマックス、ギャツビィとデイジーが緑の燈火をいっしょに眺めるところをフィッツジェラルドはどう書いているか。
「霧がなければ、湾の向こうに君の家が見えるよ」とギャツビィは言った。「君の家の桟橋の突端のところに、いつでも緑の燈火を一晩中つけとくだろう」
デイジーはいきなりギャツビィの腕に手をかけたけれども、彼は今口にしたことに気を取られているらしかった。あの燈火がもっていたとてつもなく大きな意味は、いま永遠に消え失せてしまったという考えが浮かんだのだろう。おれをデイジーから引き離していた大きな距離にくらべれば、あの燈火こそ、彼女の身近にいられるもの、もう少しで彼女に触るくらいに近いところにいるものと思われたのだ。たとえてみれば、月にいちばん近い星のように羨ましいものに思われたのだ。いまはそれもただの桟橋の上にかかった緑の燈火にすぎないものとなった。魔力をもっていたものが、その数をひとつ減じたわけだ。」(大貫三郎訳)
フィッツジェラルドはここではっきりとギャツビィがほんとうに望んでいたのは「欲望の成就」ではなく、「欲望の永遠の不充足」であると記している。
誰が読んでもそう書いてある。
欲望は満たされないときがいちばん活性化する、というのがこの小説の全編を貫く知見であり、フィッツジェラルドはそのことをよく知っていた。
「ふたりのあいだには描写すべき情緒的繋がりなどない。あるのは、ギャツビィと彼の『ことばで言い表しようのないほどの夢想』との情緒的繋がりだけである。デイジーは、その夢想の中の意識されない象徴でしかない」とフェッタリーは書いて、鬼の首でも取ったようにこれこそ「抵抗する読み」であるといばっているけれど、フィッツジェラルドが書こうとしていたのは、まさに「そのこと」ではなかったのだろうか。
触れるすべての人間を「限りなく欲望の対象に近づきながら、なお不充足のままに足踏みする」という欲望の戦略のために利用し尽くす人間のエゴイズムをみごとに活写したのがこの作品のカノンとしての価値なのではないだろうか。
まさか、ギャツビィを「全員が範とすべきアメリカン・ヒーロー」として描いたわけじゃないでしょう。フィッツジェラルドだって。
あらためて言うまでもないけれど、すぐれた文学作品というのは、欠点の多い登場人物を立体的に描くことで成功している。
でも、その登場人物は必ずしも、作家が読者に強要しようとしている「理想的人間像」であるわけではない。ほとんどの場合、そうではない。
人間はなぜ、こんなに多くの欠点をかかえていながら、それでもこんなに愛すべき存在でありうるのか。
たいていの文学作品は私たちにそういう反省の手がかりを与えてくれる。
スメルジャコフとかニコライ・スタブローギンとかテリー・レノックスとかをロールモデルに自己造型する人間なんか、どこにもいない。
けれども彼らは人間について実に多くを教えてくれる。だから作家はそういう人物を丹念に、ほとんど愛情を込めて描く。
それをして家父長的イデオロギーの生み出したプロパガンダ的な作物であって、作家はそのような人物を崇敬することを読者に強いているのだ、というような読解って、いくらなんでも「あんまり」だと私は思う。
(2002-08-25 00:00)