8月22日

2002-08-22 jeudi

19日から四日間の「東京ツァー」を終えて帰神。
TVに出たり、渋谷駅前で写真のポーズを取ったり、なんだか慣れないことをしたせいで、疲れた。
東京という街は、そこにいるだけでかなり疲労する。
先日も書いたけれど、あそこで疲労しないで暮らすためには、いろいろな情報を遮断する能力(気に入らないものは見ない、聴かない、感じない)が必要だ。
しかし、情報を遮断して、感覚を意図的に鈍磨させるというのは、かなり危険なことである。
だって、美しいものや豊かなものであっても、あらかじめ「自分が好きなもの」リストに登録してあるものにしか選択的に反応しなくなるし、「危険なもの」についても、既知の危険物にしか反応できなくなるからである。
でも、ほんとうに危険なものも、既存のフレームワークを打ち破る生産的契機も、つねに最初は「リスト外」のものとして登場する。
「でも、いちばん新しいものは東京にしかないでしょ?」
あのね、「新しい」というのと「未知」というのはまるで別の概念なのだよ。
「不気味なもの」(unheimlich) とは「慣れ親しんだ既知のもの」(heimisch) 「親密なもの」(heimlich) が不意に示す「見知らぬ相貌」のことである。
ほんとうに危険なもの、真のブレークスルーをもたらすものは、この「不気味なもの」であり、それは私たちの「かたわら」に、まるで私たちに熟知されたもののように、親しげに存在しているのである。(だから怖いんだよ)

とはいえ、東京に来ないと会えない師匠友人知人ビジネスパートナーがいるので、ときどき東京に来る。
今回は、竹信君から始まって、"アーバン仲間" の石川君、松下君。お兄ちゃんとシンペー。ゆり@横浜さんと自由が丘道場の道友諸君。そして締めに昨日は平川君と会った。
旧友たちも知命を超えて、だんだん貫禄がついてきて、語ることばの一言一言がけっこうしみじみと重く心に届くようになった。

仕事関係は晶文社と『婦人公論』と文藝春秋。
晶文社は『おじさん的思考パート2』の打ち合わせ。
突発的に『期間限定の思考』というのを思いつく。

『婦人公論』は少女マンガについてのインタビュー。
「私は『エースをねらえ!』から人生のすべてを学んだ」というタイトルになるらしい。(いくらなんでも、「人生のすべて」を学んだわけではないですけど)
「無限の叡智を蔵した師は、有限の生命しか有さない」とか「人間の可能性には限界がないが、人間はおのれの可能性の限界を知らなければならない」とか、同時にまったく矛盾するメッセージを発信しつつ、その矛盾そのものを物語の推力とする山本鈴美香先生の力業には、改めて感動するばかりである。

文藝春秋では編集者と気分よくしゃべっているうちに、また「悪い癖」が出て、次々と本の企画を自分から言い出してしまう。(『寝ながら学べるエマニュエル・レヴィナス』と『柳北・漱石・百間』)
自縄自縛とはこのことである。とほほ。
なんだか眼が回るような四日間であった。

御影に戻ると、ファックスやメールや郵便で、「次の仕事」が待ち受けていた。
毎日新聞から電話があり、「例の件ですが」とふられてどぎまぎする。
「例の件って、何だっけ?」
締め切りを忘れた原稿でもあったのであろうかと思ってよく聞いたら、ゲラの直しをファックスで送りますというご連絡であった。
しかし、いったいいかなる原稿のゲラであるのか思い出せない。
ファックスがきゅるきゅる言って、のぞきこんでみたら、なんだか「いかにも私が書きそうなこと」が書かれた文章が登場してきた。
けれども、いつ書いて、いつ送稿したのか。何も覚えていない。
FM東京からはラジオ出演(電話インタビュー)のオッファーがある。TVにも出たし、もう「毒を食らわば皿まで」の心境である。
朝日のe-メール時評の次の原稿をメールで送る。
こういうどたばたしたやり方を続けているとそのうちなんだか大きなトラブルを巻き起こしそうな気がする。
しかし、12月末までは「すべての原稿注文を受ける」と宣言してしまったから、いまさら引っ込みもつかない。
困ったことです。何事も起こりませんように。