翻訳は順調に進んで、担当の6篇のうち5篇が終わった。
映画の分析というのは、「映画のあらすじ」とか画面の細部についての説明が全体の半分以上あるので、映画を見ているとすらすら訳せてらくちんである。
しかし、その逆に、「見ていない映画」についての説明を読んでいると、「いったい、これってどんなシーンなんだろう?」といろいろと想像がめぐらされて、それはそれで愉快なものである。
昨日は一日『知りすぎていた男』についての論考を訳していた。この映画は未見であったが、さいわいツタヤにビデオがあった。
映画を先に見ようかどうか、しばらく考えてから、「先に翻訳、映画はそのあと」という順番で仕事をすることにした。
やり方としてはもちろん邪道であるが、映画についての文章を読みながら映像を想像して、それから映画を見て、私自身の想像と現実の映像の「落差」を味わうというのは、愉しいものである。だって、同じ映画について「二つの映像的記憶」を持つことができるのである。
同じことは小説の映画化についても言える。
小説を読んで想像が思い描いた登場人物のたたずまいと、映画にでてくるそれとのあいだにはずいぶん落差がある。
先に小説を読んだ場合は、どれほど映画を繰り返し見ても、小説的記憶(つまりウチダ・オリジナルの人物造型や風景)の方が印象深い。(たまには、私の想像と映画俳優のイメージがぴったりということもあるけれど。ロバート・レッドフォードのギャッビーとかショーン・コネリーのバスカヴィルのウィリアムとか)
でも先に映画を見てしまうと、映像の印象が強すぎて、オリジナルの想像が成り立つ余地がない。それはちょっと惜しい気がする。
というわけで、翻訳を先に片づけてから、いそいそと『知りすぎていた男』を見た。
あらかじめ炯眼の批評家にヒッチコックのさまざまな「仕掛け」について解説を受けてから映画を見るわけであるから、これはたしかに面白い。映画を先に見るより、ぜったい面白かった。
私は映画批評というものの存在理由について、あまり確信が持てない人間であるが、少なくとも「よい映画批評」は映画を見る快楽を倍加するということは言えそうである。
なんであれ、快楽を増進するものに対してウチダは好意的である。
今回訳しているのはいずれも『カイエ・デュ・シネマ』に載った二人の論客によるヒッチコック論である。ここまで訳した五篇は、どれもたいへん面白い。
ただ、読んで分かったのは、お二人ともラカンにはあまり興味がないらしいということである。(『ラカン/ヒッチコック』本とうたっておいて、ちょっとまずいすよ、ジジェクさん)
だから、(ありがたいことに)「大文字の他者」とか「ファロス」とか「象徴界」とかいう術語は一つも出てこない。
彼らが分析に利用しているのはラカンではなく、フーコーである。
フーコーは『言葉と物』の第一章で、ヴェラスケスの『侍女たち』を図像学的に分析して「〈王〉の場所」を導き出すという tour de force を演じている。
フランスの映画批評家たちは、これがずいぶんお気に召したらしく、映画的視点が「何を」見ているかではなく、この視点は「誰の視点」なのか、ということを繰り返し問いかける。
当たり前だけれど、「見ているもの」は画面には映り込まない。(自分の眼では自分の眼を見ることができない)
というわけで、フーコー主義者たちはヒッチコック映画について、こう問うことになる。
見ているのは〈誰〉だ? 「見ているのは誰だ?」という問いを組織的に言い落とすことによって、隠蔽されているのは何か? 隠蔽されつつ、すべてを統御している〈王の場所〉には〈誰〉がいて、何をしようとしているのか?
みなさんもいっしょに考えて下さいね。
朝日新聞の夕刊に浅野潜という人の『チョコレート』の映画評が載っていた。
同じ話を蒸し返すようで、心苦しいのだが、またハル・ベリーでひっかかってしまった。
こういう文章。
「今年のアカデミー賞で、黒人の父、白人の母を両親に持つハル・ベリーが黒人女性として初めて主演女優賞を受けて話題になった作品。」
しつこいようだけれど、こういうのって「おかしい」と思いません?
もし、「山形県人の父、兵庫県人の母を両親に持つヤマダは、山形県人として初めて全米オープンを制した」という記事を読んだら、私は「変なの」と思う。
「兵庫県はどうなったんだろ?」
それから、たぶんこう思う。
「全米オープンと、何県人であるかってことのあいだに、何か関係あるの?」
アメリカでは「黒人の父と白人の母を両親に持つ子供」は「黒人」にカテゴライズされるのが「ふつう」である、だから別にこれはイデオロギッシュな言明ではなく、単に客観的事実を記述しているにすぎない、というふうにも言えるかもしれない。
なるほど。だとするとハル・ベリーはたしかに「黒人」だ。
彼女が白人男性と結婚しても、その子どもたちは「黒人」だ。
その子どもたちが白人と結婚しても、孫たちは「黒人」だ。
ということでよろしいのかな。
透明の水に一滴の墨汁が垂れたのと同じで、いくら「希釈」しても、「原初の透明」には決して帰ることができない。
と、そういうわけですね。
しかし、それなら、逆に、「白い絵の具」を水に垂らすと、透明な水が「白濁」して、いくら「希釈」しても、「原初の透明」には帰ることができない、という「白人汚染源」論があってもよいはずである。
でも、「黒人の父と白人の母を両親に持つ、白人女性」ということは誰も言わない。
なぜ言わないのか。
あるいは、先住民との混血の俳優たち(マーロン・ブランド、バート・レイノルズ、ケヴィン・コスナーなど、たくさんいる)については「白人の父親とインディアンの母親を両親にもつインディアン俳優」というふうなプレゼンテーションのしかたはされない。
彼らは、どれほど濃厚にネイティヴ・アメリカンの「血」がまじっていようと、「白人」なのである。
つまり「白人」というカテゴリーは存在しないのである。
「黒人」というカテゴリーだけが存在しているのである。
それは、アメリカでは、「白い」ということが無徴的・無垢的という意味であり、「黒い」ということだけが有徴的=汚れを意味しているからである。
ゲシュタルト心理学でよく使われる「向き合った二人の女の白い横顔」と「黒い花瓶」の絵がある。
女の横顔を見つめると花瓶は背景にかき消える。
花瓶を見つめると女たちは背景にかき消える。
図と地の反転を決定するのは、「見る側」がどちらを「有徴」なものとして見るか、その主体の側の「決意」にかかっている。
「黒人」「白人」問題というのは、要するに「どちらを有徴項(汚れ)として見るか」という純粋に「見る側」の決断の問題である。
「黒人の父と白人の母を両親に持つ」ものは「黒人」であるとする「一般見解」を「客観的事実」として受け容れるというのは、その人に自覚があろうとなかろうと、その人が白人であろうと黒人であろうと、KKKであろうと公民権運動のミリタンであろうと、本質的なところで「レイシストの視線」で世界を眺めている。
「被差別者の解放」という事業が、ある段階まで「被差別者の有徴化」を戦略としてとらざるをえない、ということを私は理解できる。
「黒人」であれ「ユダヤ人」であれ「在日コリアン」であれ「部落民」であれ、その人が現に受けている差別をはね返すために、「被差別有徴者」としてのポジションをはっきりと示すということは必要なプロセスだろう。
しかし、差別の解消ということが、「有徴化するまなざし」そのものの廃絶をめざすものであろうとするなら、「有徴化」の戦略は「どこか」で廃棄されなければならない。
私は「今すぐ」廃棄しろと申し上げているのではない。
それが無理であることくらいは承知している。
ただ、「いつか、どこかで」廃棄されなければならない戦略である、ということは頭のすみに置いておきましょう、と申し上げているのである。
「黒人の父と白人の母の子どもは黒人である」というような有徴化の言説は、いま現在は「常識」として通用している。
しかし、これは「とりあえずは通用しているが、いずれ廃棄されるべき常識」であると私は考えている。
私がしているのは、いうなれば「常識」に「賞味期限」を刻印するような仕事である。
「これはいまは『常識』で通用してますけど、賞味期限がそのうち切れますから、切れたら棄てて下さいね」ということを申し上げているのである。
こういう地味な仕事の意義を理解してくれる人は少ない。
「常識は永遠に常識である」とするか、「棄てるべきものは、いますぐ棄てろ」とするか、どちらかに決めてすっきりしようぜ、といらつく人ばかりである。
常識の多くは、賞味期限が来たら「腐る」。
しかし、賞味期限のあいだは「食べられる」。
そういうものである。
「いずれ腐るものなら棄ててしまえ」ということを言う人もいるが、それを棄てると、とりあえずほかに食べるものがない、という場合もある。(民主主義とか国民国家とか一夫一婦制というのは、そういう「もの」だ)
あらゆる社会制度には「前史」があり「後史」(という言葉は存在しないけど)がある。それが生まれるには生まれるだけの歴史的条件というものがあり、それが消滅し、別の何かによってその社会的機能が代替されるためには、それなりの歴史的条件の熟成というものが必要なのである。
私たちの世界に「絶対に、未来永劫に正しい制度」などというものは存在しないし、同じように、「存在すること自体が人間性にもとるような、本質的に邪悪な制度」というものも存在しない。
それぞれの制度やイデオロギーや慣習は、果たすべき歴史的使命があって登場し、その使命を終えたら退場する。
ただ、それだけのことである。
知性の行使というのは、「歴史的使命の賞味期限」をチェックして、「腐ったものを食べない」、「まだ食べられるものを棄てない」という、ただそれだけのことである。
けれども、そういう考え方をする人は、ほんとうに驚くほど少ない。
(2002-08-16 00:00)