お盆で、るんちゃんが「里帰り」している。
そうはいっても、先方はお昼過ぎに起きだして、明け方眠りにつくというライフサイクルであるので、なかなかお会いする機会がない。
狭い家だから、「夜行性」のるんちゃんと「昼行性」の私がエコロジカル・ニッチをずらして同一のリソース(TVとかステレオとかパソコンとか)を分有するというのは、ある意味で合理的な生き方である。
お会いする機会が少ないので、「父の威徳」を印象づけるために、すれ違いざまに一万円札を鷲掴みにして(話半分)「少ないけど、オコズカイね」とすっと手渡す、ということをしている。
どれほど反抗的な子どもであっても、無条件でオコズカイを渡されると、思わず頬がゆるむものである。
ウチダはるんちゃんの頬がゆるむ瞬間の表情が好きである。
あの顔を見るためならいくらでも金を出す。
ウチダは何であれ「金で買えるものは、金で買う」主義である。
ヒマは金で買う。
情報は金で買う。
技術は金で買う。
愛も信頼も(買えるものなら)金で買いたい。
ウチダが困っている友人にまず告げる言葉は「金なら貸すぞ」である。
その意味では私は(増田君と同じく)根っからの「資本主義者」である。資本が大好きで、「キミが欲しい」ので、どんどん私の手元に集中して、群生して頂きたいとつねづね念じている。
その私がそれでも資本主義をなかなか全局面で貫徹できないのは、私が資本を愛しているようには資本が私を愛してくれないからであって、私の資本主義そのものへの忠誠心に揺らぎがあるからではない。
そのような資本主義者であるウチダが、金で買えるものは金で買ってすませようとするのは、「金で買えないもの」にこそ、できれば私のリソースを集中させたいからである。
しかし、当然ながら、「金で買えないもの」が何であるかは、「金で買えるもの」をリストから「除去」してゆかないと分からない。
私はこれまでの経験で、世の中のかなりのものは「金で買える」。
その中には通常は「金で買えないもの」とみなされているものも相当数含まれている。
では、「金で買える」ものと「金では買えない」ものの差は奈辺にあるのか。
それは「もののも価値」そのものには関係しない。
古典派経済学が教える通り、「ものそれ自体の使用価値」は市場においてほとんど意味を持たない。
私たちが「価値」と呼んでいるのは、「交換価値」のことである。
私があるものを「ぜひ、金で買いたい」と思うのは、私が支払う金と、それを対価として得ることのできるものの価値を比較したとき、私自身が「これは、お得な取引だぜ、ふふふ」と思うからである。
何かを金で買おうとするのは、その取引が「有利なレート」での交換だと私が思っているからである。
そのへんにころがっている木の葉っぱを持っていったら、お店であんパンと交換してくれた、というような「おお、なんだよ、丸儲けじゃん」感というものがあるときにのみ、人は「金で買いたい」という気分になる。
だから、私が「愛は金で買える」と思うのは、私が支出する金額と、その対価として提供されるものを比較したとき、「圧倒的に後者の方に価値がある」と私には思えたからである。
お分かりだろうか。
逆に言えば、「金で愛は買えない」と主張する人間は、彼が支払うことつもりでいる金額と、その対価として得られる愛情表現を比較したときに、それが「不利な取引」に思える人間である。
「こんなに金を出したのに、見返りがこれだけかよ。なんだよ、損こいちまったぜ」というふうに考える人間が「愛は金で買えない」と言い出すのである。
「お金なんて、木の葉っぱみたいなもんでしょ」と思っている人間にとってみると、この葉っぱと交換が成立するものはすべて「葉っぱよりずっと価値あるもの」である。
「お金はたいへん価値のあるものである」と思っている人間にとってみると、それと交換できるほどに価値のあるものはこの世にほとんど存在しない。
吝嗇というのは、貨幣と商品の交換をつねに「不利な交換」であると感じる人間のことである。
お金使いの荒い人というのは、貨幣と商品の交換をつねに「有利な交換」であると感じる人間のことである。
私は「お金使いの荒い人間」であるが、それはお金のような「しょーもないもの」の対価として、実に多くの価値あるものが気前よく提供されるので、うれしくなっちゃうからなのである。
るんちゃんの「頬がゆるむ一瞬」にいくらの値をつけるか。
私はそのためなら、財布にあるだけ出す。
それは「その一瞬」の価値と金の価値が比較にならないからだ。
私が資本が好きなのは、資本が無価値だからである。無価値であるにもかかわらず、価値あるものとの交換を可能にしてくれるからである。
というわけなので、資本くん、キミが好きだ。キミが欲しい。(@増田聡)
(2002-08-12 00:00)