8月9日

2002-08-09 vendredi

スケジュール表に何もない日というのはうれしい。
さっそく早起きしてお仕事。
まず宅急便で届いた『おじさん的思考パート2』のゲラの校正。
『ミーツ』の「街場の現代思想」に書いたもの、自主ボツにしたものなどをさくさくと加筆訂正してゆく。(「さくさく」というのは、ワルモノ先生ご愛用の「仕事の副詞」であるが、ひとり「雪かき」をしているような、なんとなくシンプルにして「けなげ」な感じがいいね)

お昼になったので、「書き書きモード」から「翻訳モード」にシフト。
パスカル君のヒッチコック論を訳してゆく。
パスカル君の議論は論旨鮮明でたいへん面白い。
「視線」(gaze) の導入によってリュミエール的な「エデンの映画のイノセンス」が、「邪悪なもの」に汚されてゆき、映画の中の「染み」がだんだん広がってフレーム全体を汚れが覆い尽くすという論旨なのである。
ロジックは単純だが、強記博覧の映画史的知識に支えられて非常に説得力がある。
そうか『カイエ・デュ・シネマ』というところには、こういうシンプルでタフな論文も掲載されていたのか。どーせ「外道インテリお洒落小僧」たちの巣窟だろうと思い込んでいたウチダの無知は猛省せねばならない。

なかなか面白い本である。
題名は Every thing you always wanted to know about Lacan (but were afraid to ask Hitchcock)。フランス語ではTout ce que vous avez toujours voulu savoir sur Lacan sans jamais oser le demander a Hitchcock
「あなたがラカンについて知ろうと思っていて、ついヒッチコックに聞きそびれてしまったすべてのこと」という「寿限無」みたいな題名である。
ラカンについて知りたければ、ヒッチコックが全部映画で語っているから、ヒッチコックを見ればラカンのことは分かっちゃうんだよ。なんだよ、楽勝じゃん、という「寝ながら学べる」主義的な怠慢な姿勢に好感がもてる。
同じジジェクの編著で『ヒッチコックによるラカン』という1994年に露崎俊和先生たち(露崎先生はこっしー君たちの先生なのだ)が訳した本がある。
これまたたいそう面白い本で私はずいぶん利用させていただいた。
仏語題名だけ見ると同じ本のようであるが、目次を見るとまるで違う。
私がいま訳しているパスカル君の論文は仏語版には収録されていない。
どういう経緯でこんなことになったのか私には見当もつかないが、同じ題名の本が仏語版と英語版でまるっきり内容が違うというのも人騒がせな話ではある。
ひとさまが先に訳した本を間をおかずにもう一度訳すということになると、これは「喧嘩を売っている」のと同じであるが、この本は別ものであるので、露崎先生ほか訳者のみなさんはどうかお気を悪くされませぬよう。

改訳といえば、以前にはレヴィ=ストロースの室淳介訳『悲しき南回帰線』と川田順造訳『悲しき熱帯』の例がある。
誤訳が多いとされた室淳介訳であるが、冒頭の「旅といい、冒険といい、私の意には添わぬものだ。だが、私はいまそれらについて語ろうとしている」は二十歳のころの私たちにとっては、ニザンの『アデンアラビア』の「ぼくは二十歳だった。それが人生でいちばんすばらしい季節だなどと、誰に言わせまい」と並んで、忘れることのできぬ同時代的キャッチコピーであった。
私のレヴィナスの訳もいくつか「改訳」が出ている。
誤訳については申し開きのできぬウチダであるが、訳文の「味」というのはおのずと訳者によって違うもので、これは読者の「好み」に委ねたいものである。
最近はなかなか訳文の妙というものに出会うことはない。
齋藤磯雄訳のヴィリエ・ド・リラダンなどは、感動的なまでの達意の訳文であり、もとがフランス語ということが想像できないが、この水準の漢語的教養をもつ翻訳者はもうどこを探してもいなくなった。
ついでに勝手な希望を言わせてもらえば、村上春樹にはできればフィッツジェラルドの全作品を訳して欲しいものである。村上訳の『グレード・ギャツビー』はきっと素晴らしいだろう。
ウチダが生きている間にやりたいのはカミュの『異邦人』とチャンドラーの『ロング・グッドバイ』の翻訳である。
こういう傑作はいろいろな訳者がいろいろなヴァージョンを発表して、読者が自分の好みを選ぶ、というのでよいと思う。(山形浩生さんの「杉田玄白プロジェクト」というのも、たしかそのような趣旨のものであったかに記憶しているが、その後順調に推移しているのであろうか)
そういえば、『エクリ』の桃尻語訳というのもあったな。これもぜひ実現させたいものである。

ウチダはまるで不勉強な人間であるが、英語とフランス語を日本語に訳すという技術については、例外的にずいぶんと修業を積んだ。
鈴木晶先生もそうだけれど、私も心底翻訳という仕事が好きなのである。(最初のビジネスは平川くんと始めた翻訳会社だったし)
この能力は足腰が立たなくなっても、それほど急激に衰えることはないようであるので、耳順を過ぎて引退して、『東京物語』の笠智衆状態になったときに、「今日も、暑くなるぞ・・・」などとつぶやきつつ、蜜柑箱の上のパソコンの蓋を開けて、「汚れた街の騎士」の物語などをこりこりと訳すなどという仕事はぜひ「老後の楽しみ」に取っておきたいものである。
外国語ができるという能力を当世の諸君はビジネス・ユースのみに限定してその効能をお考えのようであるが、翻訳こそは、実は外国語を学んだものだけが堪能できる最上の愉悦の一つなのである。
若い諸君には、つねづね外国語の習得をお薦めしているが、それは外国語を翻訳できる能力が身に付くと、「遠い国の知らない人、幽明境を隔てた人に憑依して、その思考と感情を追体験する」という特権的な快楽を享受できるからなのである。TOEFLで何点取ったとか、そういうことでばたばたしているだけでは、つまらんぞ。