8月7日

2002-08-07 mercredi

増田聡くんから「2ちゃんねる」にはちゃんと「ウチダの悪口スロット」があったというお話を伺った。
しかし、書き込む人があまりいなくて、盛り上がらないまま、そのうちに自然消滅してしまったそうである。
私は自分の名前で検索をかけて他人が私のことを何と言っているのかチェックする、というような命知らずなことをしないので、他人が私のことを何と言っているのか、ぜんぜん知らないのでたいへんに心穏やかである。
褒められればただ「がははは」と増上漫につけあがるだけだし、けなされればただちに生き霊を送って呪殺を企てる私のような人間は、そういうところには足を踏み入れないほうがどなたにとってもよいことである。
村上春樹は「批評にぜったい反論しない」ということを原則にしているそうである。
批評とは「馬糞のびっしり詰まった小屋」のようなものだ、と村上は書いている。
「どうして馬糞はこんなに臭いのだろう」というような種類の好奇心で小屋の扉を開いても、ただ「臭い」思いをするだけで、得るところはない。
だから「馬糞小屋」が見えたら、風上を遠回りするのが適切な作法である、というのが村上の意見であった。
私はこのスタンスを正しいと思う。
私自身も他人の悪口をたくさん書いているが、本人にはできれば読んでもらいたくない。
批評というのは、その批判で「溜飲が下がる」読者にとっては知的美食であるが、批判される本人(とかそのファン)にとってはただの「馬糞」だからである。
「美味しい」と思う人だけが食べて、「げっ」と思う人は敬遠する、というのがよろしいのではないかと思う。
「ゴルゴンゾーラ」とか「くさや」とかと同じである。

レヴィナス老師はさまざまな人から論争を挑まれたが、ついに生涯に一度として「反論」ということをされなかった。
それは老師が「論争に決着をつける」ということを忌避されていたからである。
「こっちが正しくてこっちはペケ」
という発想法を老師は取らない。
その作法を先生は、タルムードの博士たちの聖句解釈をめぐる終わりなき議論(「マハロケット」)から学んだのである。
マハロケットにおいてたいせつなのは、最終的な「正解」に到達することではなく、ある根本的に重要な問題について、能う限り多くのアプローチを試みることである。
レヴィナス老師の哲学的言明はひとつの「解釈」であり、それに対する批評も、(おなじ論件を正しく照準してさえいれば)別の「解釈」だということになる。
それらはとりあえずは等権利的なものだ。
いずれの解釈が「より正しい」のかを判定する審級は存在しない。
当人たちに代わって「正否」を判定してくれる「上位審級」がどこかに存在する、という信憑を持つものは「マハロケット」には参加することが許されない。(まだ「子ども」だからだ)
ありうるとしたら、いずれの解釈が「より豊かだったか」という後世の採点だけである。
「より豊か」であったかどうかは、それに後続する解釈者の世代が、どちらの解釈からより多くの「手がかり」を汲み出したのかをひとつの基準に査定される。
解釈の豊かさはその「完結性」ではなく、その「開放性」「多産性」によって査定されるのである。
だから、レヴィナス老師にとって「反論して、相手の息の根を止める」というようなことは慮外のことであった。
といいながら、老師も人の子。ちょっと屈折した仕方でリアクションしたこともある。
例えば老師はジャック・デリダから「暴力と形而上学」で痛烈な批判を浴びた。
これにはひとことも反論しなかったけれど、ずいぶんあとになってデリダに仕返しをした。
デリダがリセでの哲学教育カリキュラムの改訂に反対して、フランス中の哲学者を糾合して、「子どもに哲学をする権利を保証せよ」というキャンペーンをしたときに、老師はたった一人「子どもに哲学なんかさせることないですよ。それは赤ん坊にステーキを食べさせるようなものですから。哲学は大人のものです。子どもはマンガでも読んでなさい」と書いて人々を仰天させたのであった。
私はこれを読んで「レヴィナス先生、やっぱりデリダのこと怒ってたんだ」と涙がでるほど笑ったのであった。

いよいよジジェク本「ラカン/ヒッチコック」の翻訳にとりかかる。
翻訳というのは「他人がもうすでに考えたこと」をトレースしてゆく作業なので、必要なのは語学力というよりは「憑依能力」である。
私は他人の痛みや傷に対する共感能力のまるでない「人非人」であるが、他人の思考回路を追体験する憑依能力には長じている。
ひさしぶりの翻訳なので、「憑依」エンジンをちょっと空ぶかししてみる。
グイングイン。
おお、なかなかエンジン音は好調だ。
「憑依」のつらいところは、作者がバカだと「バカが感染」してしまうので、そのあともしばらくこちらの知能程度が下がってしまうことである。
逆に賢い人の本を訳していると、「賢さが感染」してしまい、並行して論文などを書いていると、ふだんの私では決して思いつかないような堂々たるフレーズが湧き出てくるのである。
それゆえ、私はできるだけ「賢い人」の本だけを選択的に訳してきた。
だが、一度だけ商売っ気を出して、あまり賢くはないが、「当世風売れ筋」のさるアメリカの学者の本を訳して、えらい目にあったことがある。
このJ・Mという学者はラカンだのハイデガーだのいろいろなものを引用してくるのだが、どれもわけのわからない断片の引用で、読者をケムにまくための小道具として使っているとしか思えない。
自分自身の論述でも、論理の流れが怪しくなると、ごにょごにょと「ごまかし」をして、意味不明の文章にする。
「自分が何を言っているのか本人も分かっていない文章」を訳す翻訳者というのはせつないものである。
爾後、「バカ」の書いた本の翻訳はしないことにしている。
今回担当のパスカル君とミシェル君はどうであろうか。
見れば『カイエ・ドュ・シネマ』の常連寄稿者らしい。
なんだか悪い予感がする。
もしかすると私のもっとも苦手とする「ディープな知識をひけらかす外道インテリお洒落小僧」だったら、どうしよう・・・(この顛末については続報を待て)

そこで甲野善紀先生からお電話。
いよいよ讀賣新聞が甲野先生とジャイアンツの桑田君の師弟関係を公開することになったそうである。
明日の夕刊に出る記事の掲載予定稿を甲野先生が校正したものをファックスで送っていただく。
今朝の『婦人公論』の広告には、多田容子さんの名があって、「手裏剣」の話を書かれていた。当然、甲野先生の話も出てくるはず。
甲野先生もいよいよ「時の人」となりつつある気配である。

そういえば、私も『婦人公論』からインタビュー依頼を受けた。
主題は「少女マンガ」。
『エースをねらえ!』から私は人生のすべてを学んだ、という件についていろいろお聞きになりたいそうである。インタビューは再来週。
東京にいろいろと仕事がたまってきたので、再来週上京して一気に片づけるのである。
TV出演というのもある。
ただし、私はひとさまに顔を知られたくないので、「誰も見ない番組なら・・」という条件付き。生放送である上に、番組名も放映日も教えないから、どなたも私のTV初出演の姿を見ることはできないのである。ごめんね。意地悪で。