7月22日

2002-07-22 lundi

暑い。
はんぱでなく暑い。
鈴木晶先生は暑いのが大好きで、さっそくプールへ行ってこんがり小麦色らしい。さぞや夕刻のシャンペンも美味しいことであろう。
私ももともと夏が大好きで、少年のころは毎日のように泳ぎまくって黒々とした健康なお肌をしていたのであるが、四十をいくつか過ぎたころに、不意に「憑き物」が落ちたように「水に浸かる」ことへのやけつくような欲望を失ってしまった。
それまでは海に行くと、もうずっと海に入ったまま。肌がふやけるほど水生動物化していたのであるが、それ以後は、どちらかというと「椰子の木陰でピナコラーダを飲みながら昼寝」志向のおじさんとなってしまった。
真夏の午後、ベランダに出てじりじりと日に灼かれたとき、「ああ、いまからプールに行って冷たい水の中にどぶんと飛び込んだら気持ちがいいだろうな」と思う気持ちと、「ああ、いまからシャワーを浴びて、冷房がきいた部屋で、きんきんに冷えたビールを飲んだら気持ちがいいだろうな」と思う気持ちが拮抗した場合に、ためらいなく後者が勝つようになった。
だって、思ってから、実現するまで5分しかかからないんだもん。
欲望と欲望の充足のあいだの「タイムラグ」に長く耐えることができなくなったのかも知れない。
少年のころはそんなことはなかった。
冷房の利いていない混んだ電車に揺られて、汗びっしょりになって列を作って、ようやくプールにたどりつくというようなことが「何よりの愉しみ」であったということは、電車に乗っている時間も、順番待ちの列を作っている時間も、押し合いへし合いして狭い更衣室で水着に着替える時間もこみで、きっと愉しかったのだろう。
いまは、そういう時間がぜんぜん愉しくない。
人がまばらで、快適なプールというと、近場では芦屋の市営プールと、女学院のプールがあるのだが、そこまでゆく時間を考えると「ま、いいか。暑いし」ということになってしまうのである。

いままでいちばん気持ちのよかったのは、クアラルンプールのとある五つ星ホテルの屋上のプールである。
たった一人貸し切り状態で泳いで、ときどき水から上がってウオークマンでモーツァルトを聴きながら、冷たいキールを啜りつつ、数百メートル下の都会の喧噪を見下ろして、「がははは、アリどもは汗をたらして働いておるわ。がはは、がはは、がはがは、がははははは」と植民地主義者の本性をまるだしにしていた。
リゾートにおける愉悦の本質とは植民地主義的メンタリティだということをそのときに知った。
私たちがほんとうに快楽を感じるのは、ただ美しい自然がある場所ではなく、ヴァカンシエたちが笑い集う美しい砂浜の向こうに、黒々と「現地人のスラム」が密集しているようなところである。
自分が現地の人間には立ち入ることのできない「オフ・リミットの内側」にいると感じるときに、「ある場所」を不当に占有していることの疚しさが逆説的な「快楽」をもたらすのだ。
たぶんアメリカ人が世界中に基地を持っているのは、「現地の人間が立ち入ることのできないオフ・リミットの内側にいる」ことの快楽を手放せないからだろう。
在外基地というのは、彼らにとって、本質的に「リゾート」なのだ。