7月11日

2002-07-11 jeudi

「不愉快な出来事」があったと日記に書いたら、さっそく江さんから電話があって「空き巣にでもはいられましたか?」と心配そうな声でお尋ねがあった。
空き巣ではありません。
それに空き巣だったら、別に詳細を語ることが憚られるような話柄ではないしね。

リレー式講義女性学の最終回は四人の講師が一堂に会して、それぞれに意見を述べるという形式で行った。
学生からの「主婦は職業でしょうか?」という質問に四人の講師が全員まるで違う私見を語り出して、俄然面白くなった。
講義終了後、学生たちにお願いした感想文でも「先生たちの言うことがみんな違っているので、たいへん面白かった」という感想をたくさんの学生が書いていた。
やはり学生さんたちも教壇からの一方通行の情報提供を受けるよりも、教師たちのバトルロワイヤルを眺める方が愉しいらしい。
四人の講師というのは、経済学の石川先生、体育の谷先生、英文学の風呂本先生、そして私である。

私は久しく主夫をしてきた人間であるから、主婦という仕事がどれほど人間に創造的、主体的そして献身的であることを求める仕事であるかはよくわきまえているつもりである。
そして、主婦の仕事を適切にこなしながら、同時に経済活動に参加してお金を稼ぎ、社会的プレスティージを獲得してゆく、ということがどれほど困難であるかも骨身にしみている。
その上で、私が言いたかったことは二つある。

一つは主婦というのは、堂々たる社会的活動であり、その重要性にふさわしい社会的レスペクトを受けるべきだ、ということ。
一つは主婦でありつつ、かつ経済活動に参与して、しかるべき社会的地位を得ている女性を全員が到達すべき「サクセスモデル」として軽々に提示すべきではない、ということである。

この二つの主張は、表裏一体をなしている。
もちろん、現に主婦業をこなしつつ、十分な経済活動をしている人間もたくさんいる。しかし、それは例外的にパワフルな人間に限られる。
「例外的にパワフルな人間」をロールモデルにして、その「標準」に自分が達していないことをネガティヴに査定する、という評価方法はあまり合理的ではない、と私は考えている。
人間の手持ちのリソースには限りがある。
自分の能力以上の理想を掲げ、きつい負荷を自分にかけることは、たしかに「人格陶冶」の王道ではあるけれど、その負荷の設定は非常にむずかしい。
負荷の設定を誤って、過剰な負荷をかけ続けると、いずれ人間は壊れる。
必ず壊れる。
私はいまの日本の若い女性たちの中には、負荷過剰によって「壊れ」かけているひとが非常に多いように思う。
職業人としてのサクセス、恋愛のサクセス、クリエイターとしてのサクセス、ファッション・リーダーとしてのサクセス、家庭人としてのサクセス・・・それらを「同時に」達成した女性をメディアは「女性のロールモデル」として掲げているが、このような人間を理想にすることには利よりも害の方が多いと私は思う。
よほどの天稟とよほどの幸運に恵まれないかぎり、そのように同時多発的にサクセスできる人間はいない。

そもそも「サクセス」というものを「全員の達成目標」に掲げるということ自体おかしいと思う。
「サクセス」というのは他人との比較考量を介してしか意味を持たない。

たとえば35年前の日本においては「3C」すなわち「カー、クーラー、カラーテレビ」の所有は「庶民」のサクセスモデルであった。
いまの日本でそのようなものを所有していることはいかなる社会的差異化にも関与しない。
その少し前には「腹一杯食べられる」ことが人間的幸福の必要十分条件であった時代があった。
いまの日本で腹一杯ものを食べるのは「自己管理のできない」デブだけである。

つまり、そのつどの時代において「大多数の人間には手が届かないもの」を所有することをもって「サクセス」と呼んだのである。
要するに「サクセス」とは「欲望の満たされなさ」の別称にすぎない。実体なんかないし、誰が決めたものでもない。
誰が決めたものでもないが、それでも「誰か」が決めたのである。
だったら、少しはそれについて注文をつけることだってできるはずだ。
私はつねづね「サクセス」の標準値は「低く」設定する方がよい、ということを申し上げている。
ふつうに暮らしていて、ほんのちょっと努力すれば、だいたい必要なものは達成できて、ほとんどのひとが「幸福な人」にカテゴライズされるような社会は「住み易い」社会だと私は思っている。
いまの若い女性を見ていると、決してこの社会は彼女たちにとって「住み易い」ようには思われない。
それは性差別とか家父長制とか女性解放の不徹底とかいう制度実体の問題というよりは、若い女性たちが置かれている現状と、彼女たちに示されている「理想」のあいだに、あまりに深い乖離がある、ということに起因しているように私には見える。
私の周囲にいる若い女性の中で、いまの生活に「十分満足している」ということを言うひとは驚くほど少ない。
「満足している人間」よりもむしろ「満足していない人間」の方が人間として「上等」であるような言説がメディアには飛び交っている。
「非達成感」に苦しんで額に青筋たてている女性の方が、「鼓腹撃壌」のハッピー・ゴー・ラッキー・ガールよりも「いまふう」なのだ。

仕事に打ち込み、それなりの評価を得た女性は、理想的な家庭人でないことを「欠如」として意識する。
安定した家庭を得た女性は、社会的な活動に参与していないことを「欠如」として意識する。
自分の力で手に入る「程度」の幸福は幸福のうちに入らない。

そういうふうにメディアは焚き付けているし、女性たちもそう思いこんでいる。
現代日本は歴史上例をみないほどに女性の「欲望」が肥大した社会であるが、それは逆から言えば、歴史上類例を見ないほどに女性のあいだに「非達成感」が蔓延している社会でもある。
なぜ、欲望をもう少し制御し、飢餓感をコントロールしようとしないのだろう。
自分のリソースの範囲内に達成目標を設定し、それに手が届いたら、にっこりと満足し、そのようなささやかな達成を繰り返すことで、ゆっくり距離をゲインすることが、結果的にはいちばん「遠くまで」ゆく方法だと私は思う。
「欲望の慎ましさ」こそが幸福の鍵だ、と古来多くの人々が語ってきたのに、今それを顧みる人は驚くほど少ない。

女性学のレポートを読んで、もう一つ気づいたことは、主婦業について感想を書いた63人の学生の中で、この女性の自己実現の困難さというややこしい問題を解決する方法の一つは「召使いを雇うことだ」という「功利的」な提言をした学生が一人しかいなかった、ということである。
どうしてみんなこの解決策を思いつかないのだろう。
家の中を清潔に管理しておきたい。家族には美味しいご飯を食べさせたい。アイロンのぱりっとかかったシーツとほかほかの布団で寝たい。
しかし主婦はいやだ、外へ出てばりばり仕事をしたいというなら、「召使い」を雇うというのが次善の策である。

むかしはある程度以上の家庭には「女中」や「書生」がいて、「そういう仕事」を担当してきた。
もちろん今ではなかなか「なり手」がいない、ということもある。
しかし、ある程度以上の賃金を提供すれば、「やります」と手を挙げる人は必ずいるはずだ。
多くの家庭が、雇い人に払うだけの収入があり、受け容れるだけの空間があり、主婦一人では担いきれないほどの量の家事労働があって、その分担をめぐって家族同士がせめぎ合いながら、なお「女中」や「書生」の導入をためらうのはなぜか。
それは、家事労働のアウトソーシングを求める気持以上に、「家の中に他人が入ってくるのはイヤだ」という気持が強いからである
これこそ「核家族」幻想がもたらした最もネガティヴな結果の一つであると私は思っている。

なぜ、家の中に「他人」が入り込むのがイヤなのか。
それは家の中にいるのは「他人」ではない、と家族たちが思っているからである。
どうして、そんなふうに考えるのだろう。
家族は「他人」ではないのか?
親子兄弟といえども、本心では考えているか分からないし、分かりようもない。
その上できちんとお互いのプライヴァシーを尊重して暮らす、という人間の共生の基本ルールが守られてさえいれば、そこに親戚がいようと、下宿人がいようと、女中や書生や召使いや執事や庭師や森番がいようと、すこしも気に障ることではない。
それが「気に障る」のは、家族は「他人」じゃない、と人々が思っているからである。
家族は他人じゃないから、お互いの「醜悪な内面」をさらしあっても平気である
でも他人にはそれは見られたくない。他人が入り込むと、それが見られてしまう。だから困る。
これは変でしょ。
「醜悪な内面」なんて、身内、他人を問わず、誰に対しても「じゃらじゃら」見せるものではない。
TVの前で下着いっちょでごろ寝してビール飲みながらオナラをするような生活は家の中に他人がいたらできないからイヤだ、だから女中はノー・サンキューという人間は、彼が気を許している当の身内が彼のそのふるまいによってどれほどの不快に耐えているのか想像できないのである。
家族に対して、他人としての適切な距離をとる訓練をしている人間は家の中に血縁のない人間がいても、それによって当惑するということはない。
家事労働者の受難の遠因は「核家族」にある、私はそう思っている。

私の理想は繰り返し書いているように「拡大家族」(@カート・ヴォネガット)である。
家事労働というのは、いろいろな種類の人間がにぎやかに「大家族」を構成しているところでは限りなく「社会活動・経済活動」に近い。
それがどれほど合理的思考力や計画立案能力や調整能力を要するものであるかが誰の目にも分かるからである。
そのような場では家事労働の担当者に向けられる敬愛は核家族におけるそれとは比較にならないくらい高い。
現に学生のレポートでも、家事労働の重要性に気づいた契機は、家族のメンバーが増えた場合と欠損した場合(「他人」を受け容れたとき、主婦が不在のとき、つまり「身内だけで過不足なく充足した核家族」という幻想が破綻したとき)に集中していた。

「主婦問題」を解決する王道は、とにかく、いろいろな他人が出入りする、風通しのよい、複素的な親族空間を創出することにある。
私はそう考えているけれど、たぶん賛成してくれる人はほとんどいないだろうなあ。