『寝ながら学べる構造主義』の売れ行きが順調だと文春の嶋津さんからヨロコビのお電話が来た。
神田の三省堂では「新書売り上げベスト10」で先週が5位、今週が6位だそうである。
主題からして、まるで「時事的」なものではなく、むしろどちらかというと積極的に「時代遅れ」の本なのであるが、それを買う人がいる、というのが不思議である。
私が書いているのは主観的には「ふつう、誰でも心で思っていること」である。
誰でも何となくそう思っているけれども、それを語り出す機会がなかったり、うまいことばがみつからなかったり、「立場上」言えなかったりすることがある。
私はそれを気ままに書いているだけである。
私がそれをだらだらと書ける一番の理由は、一昨日書いたように、私には「上司」も「妻」もいないということに尽きる、と私は考えている。
「上司」はある程度つっぱれば、はね返せるけれど、「妻」は難物である。
結婚しているときも私はいまとほとんど同じ思想の持ち主であったけれど、その所見を語る機会はいまの30分の1くらいしかなかった。
なぜなら、私の考えていたことのほとんどすべてが「妻」のゲキリンに触れるような内容を含んでいたからである。
「妻」の逆鱗に触れると、日常生活には多大の支障が生じる。
こちらが「ごめんなさい」と泣いてワビを入れるまで、エンドレスで論争が続くからである。
もちろん私が自説を「正しい」と確信していたら、エンドレスの論争も辞さなかったであろう。
しかし、私は持論を別に「正しい」とは思っていなかった。
私の考えは単に「私の考え」であるにすぎない。
私は万人がすべからく私の思想に同調すべきであるなどとまったく考えていない。(そんなことになったら煩わしいだけである)まして「妻」においておや。
みなさまにはみなさまのお考えがあり、私には私の考えがある。東は東、西は西、ピース。とという私の宥和的な姿勢はしかしながら「とことん正否を問う」論争家の気迫の前につねにこっぱみじんに打ち砕かれた。
でれでれした私見をクリアカットな正論によって打ち砕かれるというのはせつないものである。
「妻」が去ると同時に「大審問官」もいなくなり、私は誰にも邪魔されずにだれもとりあわない私見をひたすらぐちゃぐちゃと牛が涎を繰るように語る人間になった。
私が書いていることの多くは、「妻」がいたころに「私が言うとカドが立つから、誰かが私に代わってそのようなことを言ってくれないかしら」と願っていたことである。
それがいくばくかの共感を得ているという話を聞くと、私はなんとなく胸が詰まるような気分になる。
夫婦であれ、親子であれ、恋人同士であれ、親友たちであれ、お互いの考えや感じ方が違っていることをそれほど苦痛に感じることはないのではないかと私は思う。
他人なんだから、意見が違うのが当たり前だ。
意見が違う人がそれでも「仲良しである」と言うことの方が、意見は一致しているが、別に仲良くないということより、ずっとすてきなことだと私は思う。
意見が違っても仲良しのひとたちというのは、「お互いの考えや感じ方が違ってもいいじゃないか」という点についてだけは「考え」が一致している。
私はこの水準で意見が一致することの方が、具体的な個別の政治的意見や審美的評価が一致することより、ずっと本質的なことだと思う。
意見の違う人とはあえて意見の一致を求めない、というのはウチダの「合意形成」における原則である。
意見が違っていたら即両論併記。
異論が出たらたちまち原案修正。
採決した事案がスカだったと分かったらすかさず前言撤回。
私の意見はだいたいがその場の思いつきである。
思いつきに固執する義理はない。
だから、私はにこやかに原案修正に応じ、審議で否決されても次の瞬間にはそんな案を自分が出したことさえ忘れるているし、可決されて実施してみたら間抜けな案だったと知れたら誰よりも先に「誰だ、こんなバカな事案を提案したやつは」と怒りだす(ウチダさん、あんただよ)。
ところが、これに反して「正しい」案を出す人間は、修正や妥協に応じないし、採択され、実施されて不調に終わった場合でもなかなか失敗を認めない。
私はこれがよく理解できないのである。
どうして「正しい」ことや「成功する」ことにそんなにこだわるのだろう。
いいじゃないか、ときどき間違えたり、失敗するくらいのことは。
人間は間違える生き物なんだから。
そんなことは歴史を繙けば一目瞭然だと思う。
過去数千年、人間は歴史的決断の局面においてたぶん九割くらい「誤答」している。(もっとかもしれない)
それでも、なんとか種としては生き延びてこられたタフな生き物である。
正解を引いたら「ラッキー」、ということではいけないのだろうか。
「つねに勝つ」とか「つねに成功する」とかいうことを願うのは「不老長寿」を望むのと同じで人間としては「さもしい」ことだと私は思う。
世の中には「成功の秘訣」とか「勝ち組になるために」とかいうバカ本が氾濫しているけれど、ほんとうに必要なのは「感じのいい負け方」「誰よりも早く失敗するために」というような、真に実用的なハウツー本だと私は思う。
(2002-07-11 02:00)