今日、非常に不愉快な出来事があった。
非常に不愉快な出来事であるので、それがどのように不愉快であるのかを詳細をきわめ微細にわたって記述し、読者諸氏と怒りを共有したいのであるが、それをすることが許されない種類の不愉快事であるので、たいへん腹膨るる心地がする。
不愉快な事件というのは、私の身には近年ほとんど起こらない。
不愉快な事件というのは「立場上、気に入らない人間とネゴシエーションしたり、共同作業をしたりしなければならない」ときに起こる。
だから通常は「職場」と「家庭」で不愉快な出来事が集中的に発生することになる。
しかるに私は「職場」というものも「家庭」というものも持たない。
学者というのは本質的に自営業であり、上司も部下もいない。
クライアントはいるが、これは「学生さん」であって、私ども教師は成績査定権、単位認定権などでクライアントの首根っこをおさえているから、通常のビジネスとちがって、クライアントに対して教師は「売り手」の立場にありながら、えらそうにしていられるのである。
困った同僚というものはいることはいるが、出講日をずらしたり、廊下を迂回したり、委員会をさぼったりしていれば、うまくすると一年くらいは顔を合わさないですごすことができる。
さらにくわえて、私には「家庭」というものがない。
父はすでになく、母と兄は遠方にあり、妻は離別し、娘は去った。
だから、かりに私がある日自宅で急死しても、腐乱死体が発見されるまでには旬日を要するであろう。
「最近、ウチダ先生、学校きませんね」
「無責任なやつだな。休講の電話もしてこないの?」
「病気で寝てるとか、そういうことはないですかね」
「あのワニが病気になるわけないでしょ」
「ふいに旅に出た、とかいうことはないですかね?」
「あの人の場合は、急に思い立って『もっこす』のラーメンを食いに行ったとか、そのくらいだよ」
「老いらくの恋が燃えさかって、シベリア逃避行に旅だったとかいうことはないですか?」
「だからあいつは遠出しないんだってば。『ミーツ』に『街場の現代思想』とか書いてるけど、ほんとは岡田山の研究室と天神山の自宅を往復するだけの『山場の現代思想家』で街のことなんか何にも知らないんだよ」
「じゃあ、いよいよ、自宅で変死体、という可能性しかないですよ」
「誰が見に行くの? おれはやだよ。イ○○○さん行ってくれない?」
「ぼくだっていやですよ。ただでさえ不眠症気味なのに、そんなえげつないものを見たら、しばらく寝られなくなりますから。ヨーグルトも食べられなくなっちゃうし」
「じゃ、ナ○○さん行ってよ、ともだちでしょ?」
「仮にウチダさんが変死したとしてもですね、彼の死を公共的なフレームワークの中に回収し、名づけるというかたちで、その本質的な他者性を毀損することを、はたしてウチダさん自身は望んでいたかどうか。ぼくはそれが気になるわけです」
「なんだ、誰も行ってくれないのか・・・じゃ、ま、本人が出てくるまでもうしばらくほっとくか」
ということで、腐乱死体が白骨化するまで、ウチダは放置されるのである。
家庭を持たない人間は不愉快な出来事を回避する代償として、その程度のことは我慢しなければならないのである。
というわけで、けなげにも腐乱死体としての末路まで我慢しようというのに、それでもなお不愉快な出来事から完全に逃れきることはなかなかできぬのである。
外道の力、げに恐るべし。
(2002-07-09 00:00)