寝転がって『ミーツ』の山本慎二さんの映画評コラムを読んでいたら「内田樹」という文字が目に入ってきたのでギクっとして読み直す。(『ミーツ』はソウル・レコード評に「レヴィナス」の名が出てきたりするまことに油断のならぬメディアなのである。)
5月のはじめに朝日の「e-メール時評」に書いたハル・ベリーの話である。
『ミーツ』の記事を再録すると
「朝日の朝刊に、本誌でもおなじみの内田樹センセイが女優ハル・ベリーについて書かれていた。それは彼女がアカデミー賞を受賞した際のスピーチで『アフリカ系』であることの誇りやルサンチマンを語ったことへの疑義であり、短いコラムながらもセンセイ一流のレトリックが冴え渡り・・・ただ、いくら彼女の母親が『白人』だったにしろ、だからこそ自分が『黒人』であると分類(ヤな言葉・・・)されることの複雑な立場は、より切実なものだったはず。と思うんですけど・・・」
うーむ、そうか。
そういう感想を持つ人もいたか。
アイロンをかけながら、「たしかに、おっしゃる通りなんだけどさ、ご自身『複雑』で『切実』な事情を骨身にしみていればこそ、ハル・ベリーはある人種的『立場』を取ることをあえて自制すべきだったのじゃないかな・・・」と考えた。
600字のコラムでは意を尽くせなかった憾みがあるので、微志をご理解いただくべく、もう少し言葉を書き足そうと思う。
このe-メール時評を読まれていない方もいるだろうから、まずそれをもう一度読んでいただこう。
アカデミー主演男優賞はデンゼル・ワシントン、女優賞はハル・ベリーというふたりの「黒人」俳優が受けた。このニュースを知って「アメリカの人種差別はずいぶん解消したな」と思う人もいただろう。だが、私は「なんだか変」と思った。
というのは、これまで出演映画を何本も見ていながら、ハル・ベリーが「黒人」女優だと思ったことがなかったからである。「ベリーって『黒人』だったの?」と私はびっくりしたのである。肌色の濃いハリウッド美女だとばかり思っていた。
ベリーはその顔かたちから分かるように、白人種の血が濃く流れている(母親は白人である)。
その彼女をなぜ「アフリカ系」に区分し、ご本人も「アフリカ系」であることの誇りやルサンチマンについて語るのか、祖先に含まれた「ヨーロッパ系」のみなさんの立場はどうなるのか、そこがよく分からない。
それに考えようによっては、「アフリカのイブ」を共通の祖先とするとされる現世人類は、全員が「アフリカ系」といえるのかもしれない。
こういう恣意的な人種区分が社会にどういう利益をもたらすことになるのか、私にはうまく想像できない。
区分について知る限り、いちばんまっとうなことを述べたのはレヴィ=ストロースである。彼は「いかなる分類もカオスにはまさる」と書いた。私も同感である。
だが、混乱を増大させるような分類は、誰のために、何のために存在するのだろう?
以上である。
すでにこのHPで何度も書いているように、「人種」とか「民族」という概念をたえず帰趨的に参照しながら、自分のなすべき行動を決定したり、他人の反応を解釈したりすることを私は少しもよいことだと思わない。
それは自分の「性」に基づいて自分の身に起こるすべての(不幸な)出来事を説明するフェミニストの発想に対して私が懐疑的なのと同じ理由による。(彼女たちは自分の身に起こる「幸運な出来事」については、そのすべてを彼女自身の才能と努力に帰するのに、どうしてそれと同じ基準をわが身に起きる「不幸な出来事」については適用しないのだろう)
私はこのような人々のことを「レイス・コンシャスネスの高い人」「ジェンダー・コンシャスネスの高い人」と呼んでいる。
これは「すべる」とか「ひかる」とかいうことばをすべて自分の頭髪の状態への揶揄だと聞き咎めて落ち込む「ハゲ・コンシャスネスの高い人」と、その解釈学的態度において深く共通するところを持っている。
自分をとりまく社会環境は本質的に「ただ一つの変数」(人種、あるいは性、あるいは国籍、あるいは階級、あるいは宗教、あるいは頭髪の有無・・・)によって決定されており、その変数さえ「いじれば」、システムは根源的に刷新され、自分の生き方も一変する、という考え方をすること、それがこの「・・・コンシャス」な方々の共通点である。
私はそういうふうな考え方を採用しない。
私たちをとりまく社会環境は無数のファクターの複合的な効果が絡み合う「複雑なシステム」であり、一つの変数の動きですべてを説明できるほど単純な「一次方程式」的システムではないと思っているからである。
ハル・ベリーに話をもどそう。
今回のアカデミー賞受賞に際しては、受賞した二人が「黒人」であることばかりがメディアによって繰り返し報道され、二人がどのようにすぐれた俳優としてのパフォーマンスをしたのか、ということにはほとんど言及されなかったことを私は「変なの」と思った。
アカデミー賞は演劇のパフォーマンスのクオリティに対して贈呈されるものであり、そこに「肌の色」は何の関係もないはずである。
しかし、受賞者もメディアも、なんだかそのこと「ばかり」を論じているように私には思われた。その手の記事を読んでいるうちに、
「そんなこと、どうだって、いいじゃないか。もうやめろよ、そういう話は」
と私は思ったのである。
しかしね、ウチダくん。現にハリウッドではこれまで露骨な人種差別が行われてきていたんだぜ。そのハンディを背負って、なお俳優としての頂点を究めたということは、『片足のハンディを乗り越えてアイガー北壁登頂したアルピニスト』なんかと同じで、やはり彼らの卓越性を傍証するデータとして優先的に言及されてもいいんじゃないか?
なるほど。そういう考え方もあるか。
でもさ、「人種」は「身体的ハンディ」とは別ものだと私は思う。
だって、「片足がない」というのは解剖学的現実だけれど、「人種」なんてものは人間の妄想の中にしか存在しないんだから。
「人種」を根拠に他人を差別する人間も、差別される人間も、ぜんぶ含めて、「私は・・・人である」という名乗りをできる人間なんてこの世界に一人もいない。
みんな「作り話」をしているだけである。
人間のする「作り話」のなかには、愉快なものや生産的なものもあるが、そうでないものもある。
そういうときは「もう、やめろよ、それは」というのがまっとうな対応であると私は思う。
「作り話」のもたらす害悪を抑止するいちばんいい方法は、「作り話」をやめることだ。
「人種」概念が消え失せても、誰も困らない。
だって、そんなの、結局ただの「物語」なんだから。
考えて見ればすぐ分かるはずなのに。
私には両親がいる。父はウチダで母は旧姓カワイである。
両親にはその両親がいる。(祖父はウチダとカワイ、祖母は旧姓ハットリとエノモトである)
その祖父母たちにはさらに両親がいる。(二人の曾祖父と四人の曾祖母たちについては、私はその名さえ知らない)四代遡ると十六人・・・(そのうち一人しか私は名前を知らない)
その計算で10代前までたどると、(江戸時代のはじめくらいかな)私の祖先は2の10乗、つまり1024人いることになる。
私はこの1000人余のご先祖たちについては、一人としてその名前を知らない。
どこに棲んで何をしていた人なのか、まるで知らない。この全員が「日本人」であるなんてことをどうして私が確言できるであろうか。
そのあとさらに代を遡ると祖先はどんどんふえてくる。
計算では25代先(平安時代のはじめくらいだろうか)で私の祖先は一億三千万人にまで膨れ上がる。
これはすでに当時の日本の人口をはるかに超えている。
これを説明できる方法は二つしかない。
一つは、私の祖先たちの相当数は重複していて,同一人物が私の「血統樹」に何度も何度もちがう立場で登場してくる、ということ。
もう一つは、私の祖先には「日本人」ではない人が大量に含まれている、ということである。
たぶん、その両方だろう。
だから私が「私は純血日本人である」と名乗るのは、ほぼ確実に「経歴詐称」なのである。
「私は・・・人である」という名乗りは祖先の相当数を血統から排除することによってしか成り立たない。
『寝ながら学べる構造主義』にはブラック・セミノール族のことを書いたので、もう一度それを繰り返すけれど、アフリカ系逃亡奴隷と先住民逃亡奴隷の混血であるセミノール族は、ライフ・スタイルは「インディアン」風であり、肌の色はブラックである。そして、彼らは自分たちがアフリカから来たということを認めていない。「私たちは白人たちより早くからこの大陸に居住していた」と主張している。
彼らはそうやって祖先の半数を血統幻想から排除している。
エスニック・アイデンティティというのはそういうものだ。
それは「存在したもの」を「排除」し、そこから目をそむけることではじめて成り立つ種類の幻想である。
「人種」が「作り話」であるということは私たち全員が「知っている」。
「知っている」のに、「知らない」ふりをしている。
ほんとうに「知らない」ほどにバカなら仕方がない。
だけど、かけ算ができる人間であれば、誰だって分かるはずだ。
自分のn代前の祖先数が2のn乗であり、その数字は必ずどこかで当時の世界人口総数を「超えてしまう」ということは小学生にも分かる。
その上でなお「純血・・・人」とか「純粋・・・人種」とかいうことを口にするのは、「嘘と知って、嘘を語っている」ということである。
そういうのはよくないよ、と私は言っているのである。
ラカンが発見したのは、私たちはつねに自分の過去について「前未来形」において語る、ということである。
私たちは未来に向けて(他者からの「承認」を獲得するために)、過去を想起する。
私たちがおのれの起源を語るのは、「真実」を告知するためではなく、ある「物語」のうちに自分と聴き手をともに「絡み入れる」ためである。
「起源」や「種別」というのは、そのような「生存戦略」のひとつである。
ハル・ベリーについて私が問おうとしたのは「アフリカ系」であるという名乗りを通じて、母をおのれの「起源」から排除したとき、彼女は何を「しようとしていたか」ということである。
「あなたは、そうすることによって、何をしようとしているのか」
これはラカンが「子供の問い」と呼んだものである。
私はこの「子供の問い」を「変なの」と思ったものに向けたのである。
仮に、彼女が「黒人」である彼女の父を「起源」から排除し、「私は白人です」と名乗っていた場合、何が起こっただろう。
その「嘘」を咎める人がきっといただろう。
「どうして、あなたは自分の中のアフリカ系の血を恥じるのだ。堂々とカミング・アウトすればよいではないか」と忠告をする人がきっといただろう。
ではなぜ、彼女が自分の母を「起源」から排除して、人種としての帰属先を「詐称」したことについては、(私の知る限り)その「嘘」を咎めた人が一人もいなかったのだろう。
理由は簡単だ。
それが「ポリティカリーにコレクト」な選択だったからだ。
だって、アフリカ系はアメリカ社会では「被抑圧人種」なんだから。
私はあえて被抑圧人種の側に立つ、と彼女は宣言したのである。
彼女は「コレクト」な選択をした。
そしてメディアはその選択をしなかった場合よりも多くの拍手を彼女に送った。
私はそのことを咎めているのではない。
だって「正しい選択」をしたんだから。咎める筋はない。
「正しい選択」をするために彼女は「物語」を語ることを辞さなかった。
よいも悪いもなく、人間とは「そういうことをする」生き物なのである。
けれども、ハル・ベリーが「みずからの起源について、〈物語〉を語っている」ということについて、関係者全員が「知っていながら」、「知らぬ」顔を決め込んだ、のは「いかがなものか」と私は言っているのである。
「どうして、彼女はこういう『作り話』をするんだろう?」
という問いを「覚醒」させておくことは、知性にとってたいせつなしごとである。
「人種」というのは、彼女がしたように、ある種のイデオロギー的な、場合によっては功利的な判断によって「どちらに帰属するか」を選べるような、あるいは選ぶことを強いられるような「虚構」にすぎない。
そのことを私たちは、こういう機会にときどき思い出しておく必要があると思って私はあのコラムを書いたのである。
人間たちの社会はさまざまな「作り話」によって「分節」化されている。
レヴィ=ストロースによれば、それはカオスに切れ目を入れ、差異を作りだし、そうすることで「差異を乗り超えるためのコミュニケーション」、つまり贈与と友愛を動機づけるためである。
人間と人間のあいだのコミュニケーションを活性化させること、それがさまざまなレベルにおける「差異」の人類学的効果である。
人間が作った制度には「人間が作りだした」なりの意味がある。
それをきちんと見据えた上で、社会制度については考えたい。
「昔からある制度だから、死守しよう」という人も、「昔からある制度だから、廃絶しよう」という人も、どちらもどうかと思う。
「昔からある制度なんだけど、これって、もともと『何のために』作ったの?」
という「子供の問い」を大切にしましょう。
ということを私は申し上げたかったのである。
(2002-07-06 00:00)