7月5日

2002-07-05 vendredi

毎日、同じことばかり書いていて、「もう、いいよ」と言われそうだが、「暑い」「忙しい」「仕事の注文が多い」。
本日は讀賣新聞からインタビューの申し込み、毎日新聞から原稿の依頼、朝日新聞から原稿の催促。講演会の依頼が二件。講談社から選書メチエの原稿依頼。
三大新聞から同日オッファーというのは、物書きにとっては商売繁昌めでたい限りであるが、本人は研究室の電話が鳴ると、びくっとして「ああ、また仕事の依頼だったらどうしよう」と震えるばかりである。
そんなに書くネタないし。
昨夜は、舞台に出たのはいいが、ひとことも台詞を覚えていなくて、適当な台詞を言ってごまかしていたら、(時代劇だったので)まわりの人に刀斬り付けられて、必死に合気道の技で投げ飛ばしているうちに舞台がめちゃくちゃになって逃げ出して、演出家に「コノヤロー」と追いかけられる夢を見た。(これはほんとうである。私はいつも嘘ばかりついているわけではない)
なんだか正夢になりそうである。
それにしても、舞台に出て「適当な台詞を言って」いたらけっこう客には受けていたり、合気道の技がびしっと決まって役者が舞台からころげ落ちて拍手喝采というあたりに私の反省のなさが如実に現れている。
こんないい加減な仕事の受け方をしていれば、私のバカ頭の内実はいずれ広く天下の知るところとなり、ぱたりと注文も止まるのであろう。
だが、無内容な人間であることがばれて仕事がなくなることを切望するというのも情け無い話である。
しかし、約束は守るウチダは、大学で11時間仕事をしてへろへろになって家に戻り、J&Bを啜りながら、30分で朝日と毎日の原稿を書き上げる。
そうやってほほほいのほいと書いたバカエッセイが、読んでみると、われながら面白い。
「われながら面白い」というふうにこの状況でなお「思える」という底知れぬめでたさが、私の野生動物的な(というより、ほとんど爬虫類的な)前頭葉のもたらす強みである。

村上春樹を読み終えて、次は太宰治の『桜桃』を読む。
村上春樹の仏語訳はじつにすらすらと読めて、フランス語の向こうにちゃんと村上春樹の文体が透けて見えた。
それに対して、太宰治の仏語訳はまったく太宰的でない。
ぜんぜん面白くもおかしくもないのだ。
有名な冒頭の一節はこうだ。

J'aimerais croire que les parents passent avant les enfants.

そのまま素直に訳すと

「両親は子どもに優先する、というふうに私は思いたい」

なんということもない。
太宰のオリジナルは

「子どもより親がだいじと、思いたい」

いきなり五・七・五で始まる。
このフレーズがそのままがつんと身体にしみこみ、骨にからみつく。
だから、高校一年のときに読んだこの一節を、私は40年間忘れることができなかった。
ことばの力というのは、そういうものだ。

「あなたを待てば、雨が降る」
でも
「砂混じりの茅ヶ崎」
でも
「あなたのリードで島田も揺れる」
でも
I wanna hold your hand
でも。とにかく心に残るフレーズというのは、聴いたその瞬間に身体に刻み込まれるものなのだ。

意味なんか関係ない。いきなり「がつん」とくるのである。
太宰の文章はそういう身体的な切迫感をともなっている。
その「しかけ」はフランス語で読むとむしろいっそう際だってくる。
第二フレーズはこうだ

J'ai beau me dire, comme les philosophes de l'Antiquite, qu'il faut penser d'abord aux enfants, eh bien non, croyez-moi, les parents sont plus vulnerables que les enfants.

直訳すると

「古代の哲学者たちのように、まず子どものことを考えるべきだ、と私も思ってはみたけれど、そうもゆかない。両親は子どもより傷つきやすいからね」

つまらん。
太宰の原文はこうだ

「子供のために、などと古風な道学者みたいな事を殊勝らしく考えてみても、なに、子供よりも、その親の方が弱いのだ。」

原文の「なに」を仏語訳者は苦心して eh bien non, croyez-moi と訳した。
croyez-moi は「私を信じなさい」の意で、断定を強調するための挿入句である。
この訳は正しい。
というのは、現に太宰はここでいきなり話を「読者」に振っているからである。
croyez というのは「信じる」という動詞の二人称複数命令形である。つまりいきなりここに「あなたたち」というものが呼び出されているのである。
このように挿入されることばの機能をローマン・ヤコブソンは「交話的機能」(fonction phatique) と名づけた。
電話で「もしもし」といったり、教師が生徒たちに「いいかな」と言ったりするときのことばのはたらきのことである。
これはそれ自体にはメッセージが含まれていない。

「このコンタクトは維持されていますか?」

という「コミュニケーションが成り立っていることを確認するための合図」なのである。
太宰治は冒頭ふたつめのフレーズで、いきなり読者を物語に巻き込む。

「そう思うよね、あなたも」

太宰はそういうメッセージを発信している。けれど、フランス人のようには書かない。
彼はただひとこと「なに」と書くだけだ。
しかし、この「なに」で読者はいきなり太宰との対面状況に巻き込まれる。
こういう交話的なフレーズをさりげなく、かつ適切に使うことができる作家だけが、読者を物語のうちにまたたくうちに拉致し去るのである。すぐれた作家の多くはこの種の「めくばせ」の巧者である。太宰治はとくにその点において傑出していたと私は思う。
これからしばらくのあいだ、太宰治のテクストを、それこそ逐語的に解読してゆくことになるけれど、きっと多くの文学創造にかかわる発見があることだろう。
日本文学の古典をフランス語で読む、というのは「大当たり」のアイディアであった。
全国のフランス語の先生方、このやり方、上級フランス語の授業にはオススメですよ。