ゆうべおそくまでわいわい飲んでいたので、今週も木曜の朝は寝ぼけマナコである。
しかし、そのボケ頭で、大学院の演習では「90分二回でラカン丸囓り」という難行に挑まねばならない。
しかし二日酔いなので、ぜんぜん「ラカンあたま」に切り替えることができず、院生たちを前にして、
「院生心得その1:よほど体力とヒマがあるとき以外は反省してはならない」
「その2:論文を書く前には決して計画を立ててはならない」
「その3:いかなる人間からの批判であれ、批判に耳を傾けて人生が愉快になるということはないので、すべての批判は聞き流さねばならない」
「その4:教師が『・・・しなければならない』というようなことを言い出したら、まじめに取り合ってはならない」
などという実用的説教を延々とする。
しかし、院生諸君はみんな、ニコニコしながら耳を傾けている。
よい人たちである。
45分間もヨタをとばしていたので、残り時間は45分。
その45分間で、「鏡像段階理論とはどういうものか」と「現実界とは何か」について超特急で演説をする。(来週は90分で「象徴界」と「父の名」をやっつけないといけないから、忙しい)
現実界といったら、まあ「現実」のことだわな。
んでね、人間つうのは「現実」には決して触れることができんのよ。これが。
人間が触れることができるのは「物語」だけだ。
たとえばさー、「愛してる」って言うじゃない。
そのときに自分が口にしている「愛してる」っていうことばってすっごくそらぞらしいじゃない。
だからさ、ガキは「オレは『愛してる』なんていわねーぜ」って突っ張るわけよ。
それはガキが「愛という現実」がどこかにあると思ってるからなのね。
「愛してる」ということばが自然にこみあげてくるような、「核になるような現実」、「すみからすみまで豊かな愛で満たされているような感情の実質」があって、それを実感できる人間だけがそのことばを口にすべきだ、というふうに考えるわけよ。ガキだから。
でも「実体としての愛」なんて、考えれば分かるけれど、実在するものじゃない。
「愛」っていうのはさ、「愛している」ということばを口にしたあとの「事後的効果」として生じる人間関係のあり方のことなんだから。
「愛してる」って言ったことで、「愛」が生まれてくる。
だって、そう言われたらさ、言われた方はなんだか気分がよくなって、それとなく愛想がよくなったりするじゃない。
気分がよくて愛想がいい人といると、こっちも何となく気分がいいじゃない。
それが「愛」なのよ。
「ケルン」なんか探しちゃ、ダメなのよ。
原因と結果はいつだって逆なんだから。
人間は未来に向けて過去を思い出す。
人間の語る物語はすべて「前未来形」で語られる。
感情というのは「こういう感情を私は抱いている」と言った「後に」なって「あったような気がしてくる」というもんなの。
「私」というのも、それと同じで、「私」をふくむコミュニケーションのネットワークの中にしかないの。
「私」のケルンなんか探しちゃダメなの。
ハヤシさんがある日みんなから「モリさん」て呼ばれたとするじゃない。
最初のうちは「私はハヤシです。モリじゃないです!」ってがんばっててもさ、みんなが「モリさん」て呼ぶし、家に帰ると表札が「モリ」になってるし、戸籍謄本取り寄せても「モリ・カナ」になっていたら、もう仕方がないじゃない。
「モリ・カナ」とよばれる以外には社会生活に何にも支障がないなら、三日もすればハヤシさんも「モリさん」て呼ばれたら、「はい」と返事するようになるでしょ。
そして、何年か経ったら「ハヤシ・カナ」っていうのは私の見た夢だったのかしら・・と思うようになる。
その「モリ・カナ」がラカンのいう「私」。
で、「ハヤシ・カナ」が「自我」。
で、「えーっと私って、『ハヤシ・カナ』なの、それとも『モリ・カナ』なの、うーん、なんだか分かんなくなっちゃったよ」とおろおろしているのが「主体」。
これがラカンの「私/自我/主体」の三極構造。
ところが、ある日このカナぴょんが神経症になる。
そして、分析家のカウチに横になって、カナぴょんが語り出す。
「私、誰も認めてくれないんですけど・・・ほんとは『ハヤシ・カナ』なんです」
「ほうほう」
「先生、信じてくれますよね?」
「もちろんですとも、ハヤシ・カナさん」
「カナぴょん、うれしー」
「ははは、ハヤシさんが元気になって、私もうれしいよ」
というのが、分析的対話というものなのだよ。
だけどさ、このときに分析家という名の「他者」によって承認された「ハヤシ・カナ」って、「ほんとうに」存在するわけじゃないでしょ?
分析家と分析主体のコミュニケーション・ネットワークの中に新しく誕生した「ヴァーチャル・キャラクター」でしょ?
それでいいの。
他者の承認を得た「ヴァーチャル・キャラクター」に同一性を感じる、ということが「正気」のあかしなんだから。
みんなが「モリ・カナ」と呼ぶ人間と、分析家が「ハヤシ・カナ」と呼ぶ人間は、同一の「物語」マトリックスから生まれている。
私たちは「マトリックス」の世界に棲んでいる。
「物語」の世界を「ついの棲み家」と思い定めたものを私たちは「人間」と名づけるのだよ。
おお、ちょうど時間となったようだ。
では、先生は寝が足りないので、「みどりのたぬき」を食したあと、研究室でお昼寝をするからね。また来週。
午後はVIAのための演武会がある。
VIAというのはスタンフォード大学がアジアに送り込んでくるヴォランティアの学生諸君のこと。アジア各地での活動に先だって、日本に立ち寄り、関学とうちのESSの諸君の仕切りで「日本の伝統芸能」をお見せするのである。
本学では例年、茶道部、華道部、能楽部、箏曲部、合気道部&杖道会が芸をお見せすることになっている。
まずは道場で松田先生、かなぴょん、ウッキー、岸田主将、森島くん&私が合気道の演武をご覧にいれる。
それから体育館に移動して(道場は天井が低いので、杖や剣は使えないのだ)、かなぴょんが仕杖、私が打太刀で制定形12本をご披露する。
月曜日に特訓しておいた甲斐があって、乱合まで間違えずに出来た。
けっこう上出来。
みなさんお疲れさまでした。
スタンフォードの引率の先生はいつも同じ方であるが、去年はちょうど膝の痛みがひどくて演武できず、その先生から「どうしたんですか? 今年はやらないんですか?」と心配顔をされたが、今年は元気に演武が出来たのでにこにこして握手してくれる。
I'm very happy to see you again.
に対して
Me too.
と応じる。
もう少し英会話勉強しないとまずいかな。
演武が終わってからあわてて着替えて大阪へ。
能楽養成会の公演を見る。
能『経正』と狂言『牛馬』と舞囃子二番『安宅』『三輪』。
『経正』の小鼓は合気道会OGの高橋奈王子さん。毎回拝見しているが、一回ごとにぐいぐいと上達されている。
むかしは舞台に出ると、肩ががちがちになっているのが分かるほどに緊張していたが、さすがにプロになってからは貫禄の舞台である。
『三輪』の大鼓の大倉慶乃助くんと『牛馬』の善竹忠亮くんは、このあいだの湊川の下川正謡会の楽屋でおしゃべりした、私がおおいに将来を嘱望している能楽系アイドルである。
慶乃助くんは汗をほとばしらせつつ「パコーン」と例によってグルーヴ感のある大鼓を打っている。
びっくりしたのは忠亮くん。途中で絶句してしまったのである。
ちょうどこの前下川正謡会の楽屋でお弁当を食べている忠亮くんの隣に座り込んで、「ねえねえ、あのさー、シテ方って、絶句しても後見とか地謡の誰かがつけてくれるけど、狂言方って、舞台で詞章忘れたら、だれがつけてくれるの?」とトンデモナイ質問をしたのである。
忠亮くんはしずかに弁当を食しつつ、「誰もつけてくれないです・・・」と答えたのであった。
そんなことを訊いたのがいけなかったのか、養成会の舞台でよもやの絶句。
(2002-06-27 02:00)