6月24日

2002-06-24 lundi

ひさしぶりに下川先生のお稽古へ。
謡は『蝉丸』。
下川先生の謡に耳を傾けていたら、やはり「倍音」が出ている。
モンゴルの「ホーミー」の発声法とどこかで通じるところがあるような気がしていたが、なるほど。
いかにして倍音を出すか、それを工夫してみるが、なかなかむずかしい。
どうも骨格の固有振動数を関係があるようである。
息を丹田に収めて、背骨を上昇させて頭蓋骨の百会のツボあたりから「抜く」と倍音が出やすい。
これは錬丹の呼吸法とほぼ同じである。
つまり謡の稽古はそのまま呼吸法の鍛錬になっていたということである。
むかしの人というのは、現代人よりよほど合理的である。
愉しみと稽古が一体となっていたんだから。
遊びと本業を一体化する、というのはウチダの生存戦略であるが、これはべつに私の創見でもなんでもなくて、実はものすごく伝統的な作法だったのである。

来年の大会の演目が決まる。
私の舞囃子は『船弁慶』。
平知盛の亡霊が義経相手に長刀を振り回すというダイナミックな舞である。
足腰が立つうちにやっておかないと、長刀ものなんかできないから、よい機会である。
武道と能楽の身体運用の共通点についても得るところが多いだろう。
うまくすると、「能楽と武術」という主題で論文が一本書けるかもしれない。(武道と能楽を同時に稽古していてかつ身体論研究者という人間はおそらく日本に五人くらいしかいない。)
その論文をどこぞの出版社に売りつければ「お役料」分くらいの印税がはいるかもしれない。
おお、これはよい考えだ。
遊んで、稽古して、研究して、お金を稼ぐ、という四つが同時に果たせるではないか。

ゼミでは「美人コンテスト」の話で盛り上がる。
みんなでわいわいと「なぜ、最近の女の子は美人ばかりなのか。不美人はどうやって短期的に淘汰されてしまったのか」という根源的問題について、とても世間さまにはお聞かせできないようなトンデモナイ話をしているうちに時間が過ぎてしまう。
なんだか遊んでお給料をもらっているようで、申し訳がない。

雨の中、体育館で杖のお稽古。
杖の遣い方についてこのところ「気づき」があって、それをずっと稽古している。
とりあえずは「身体を割って遣う」ということの大切さしか分からない。
身体を「捻らない」で「割る」ということが、どうして大事なのか。なぜ、そうすると杖の「刃筋」が生きるのか。まだ断片的なデータしかないけれど、いずれ、それらを統合する術理も分かってくるだろう。

今日、下川先生に能の構えにおける「胸を落とす」ということの意味をお尋ねしたら、そういう言い方はしないけれど「なで肩」ということは大切だ、と教えていただいた。
能楽師の最良の体型は「肩がない」というものだそうである。
体幹からじかに手が生えていて、肩のジョイントがない状態を理想的体型とするのである。
私が体術の稽古を通じて分かったことは、肩は「起こり」の指標であるだけでなく、「気の流れ」の障害でもある、ということである。
武道的な「胸を落とす」身体操作は、身体の内側に張りを作り、「肩を消す」ことで両腕の「斬りの冴え」を出す効果がある。
今日、下川先生に立って頂いて、先生が「肩を消す」瞬間の胸の筋肉がどうなっているか見たら、やはり、がばっと「胸が落ちて」いた。
なるほど。なるほど。

木曜日にスタンフォード大学のお客さまに武道の演武をお見せするイベントが予定されているので、稽古のあと、体育館でカナぴょんを相手に久しぶりに杖の制定型を十二本まで遣ってみる。
たっぷり形を遣ったら、いい汗をかけた。
武道の形稽古はほんとうに愉しい。
形稽古はほんとうにセッション・コミュニケーションだと思う。
だからこそ、なぜ、このようなセッション・コミュニケーションで「試合」などというものを行うのか、私にはそれがうまく理解できないのである。
それって、恋人同士が二組出てきて、審査員の前で「どっちのペアがより愛し合っているか」を競って、判定してもらうようなものではないだろうか。
「キミたちの方が、あっちのペアより仲良しみたいだから、キミたちの勝ちだ。さあ、次は全国大会だ。めざせベスト4」とか言われても・・・
そんなこと他人と比較しても仕方がないと思うんだけど。