6月18日

2002-06-18 mardi

今日の午後四時に新潮社の編集のかたと約束があったのだが、3時半キックオフということで、急遽待ち合わせ時刻を午後2時に変更。(私がしたんじゃないよ、先方から「そんな時間に仕事の話ができるでしょうか?」という打診があったのである。たしかに喫茶店にはいっても、従業員全員が厨房でテレビをみていて、誰一人注文を取りに来ない、というようなことになるやもしれず、時間変更は正解だったかも)
ともあれ、本日のトルコ戦はどうなるのであろうか。
打ち合わせを早々に終えて、うちに帰って見なくちゃ。

鈴木宗男がようやく捕まりそうである。
TVのアナウンサーも「も、どーでもいーよ」というような投げやりな口調でこのニュースを伝えていた。
こんどの国会は有事法制、個人情報保護法案、郵政民営化などなど重要案件が目白押しであったし、そもそも「小泉構造改革」の正念場となるはずであったが、何ひとつ「新しいこと」が始まらないまま、何一つ「日本再生」の指針が示されないまま、そこらじゅうにガタの来た「古いシステム」がただきしみをあげてぼろぼろと壊れてゆくさまをみせつけるだけで閉幕しようとしている。
その原因のひとつはまちがないなくこの鈴木にある。
この男の下品な顔付きと威圧的な語り口は「日本の政治システムの未来には何の希望もない」という「事実」そのものの記号であった。
TV画面を通じて、半年にわたってその記号をあまりに繰り返し見せつけられたせいで、私たちは全員が「日本の政治には希望がない」ということを骨の髄まで刷り込まれてしまった。
すでに述べたけれど、有事法制も個人情報保護法案も、法案の合理性や条文の整合性に致命的な問題があって廃案にされたのではない。
そのいずれもが「法律を運用する者に大きな自由裁量権を与える」法律であったために、国民に忌避されたのである。
いま、私たちは法律の制定者(国会議員)と法律の執行者(官僚)が大きな自由裁量権を持つことを望んでいない。
だって、バカなんだもん。
法案が、論理的整備ゆえにではなく、「法律はそのものはつじつまがあっているんだけれど、それを運用する政治家と官僚がバカだから、どうせろくなことにはならないだろう」という理由で廃案になったというのはおそらく日本憲政史上はじめてのことである。
政治中枢これほど知的倫理的レヴェルの低い人間が蝟集したのも、おそらく日本史上はじめてのことである。
すごい時代になったものである。
その「すごい時代」をみごとに図像的に表象するが鈴木宗男の顔なのである。
ひとりの人間がこれだけの政治的影響力を行使できるというのも、考えてみたらたいしたものである。

そこでウチダから提案。
鈴木宗男の顔を福沢諭吉に替えて一万円紙幣に印刷する。
強制的新札切り替えで、すべての一万円紙幣は鈴木宗男紙幣に切り替えられねばならない。退蔵は禁止。
これによって驚くべき経済効果が生じる。
だって、私たちは財布をあけるたびにそこに鈴木宗男の顔を見出すことになるからだ。
誰がそのようなものを財布のうちに久しくとどめ置こうとするだろうか。
一瞥するや、「げっ」となって、それを棄てるように使ってでも、釣り銭の夏目漱石の知的温顔と交換しようとすることは火を見るより明らかである。
かくして人々はムネオ一万円紙幣を「こども銀行券」のようにばらまき、受け取った人々も、受け取るや否や「げっ」と言って棄てるように不要不急のゴミ商品を買いあさって、一万円を手元からなくそうとする。
これによってどれほど流通が加速するであろう。
すばらしい経済効果ではないか。
日本経済再生の奇手とウチダはひそかに自負しているのであるが、問題は、どんなに労働をしてもムネオ紙幣で賃金が支払われるということになると、国民全員がどっと勤労意欲を失ってしまう可能性がある、ということである。