半日がかりで「女性学」のレポートを読む。
テーマは「女として読む・女として書く」
講義では、ショシャーナ・フェルマンとリュス・イリガライの主張を簡単に紹介して、それをネタに「性差と言語」の関係についてお話をした。
レポートには「性差と言語」について、具体的な経験に基づいて、自分の思うところを書いて下さい、とお願いした。
レポートはなかなか面白かった。というか、すごく面白かった。
女性差別については、ほぼ全員が現実に不愉快な経験をしたことがあるとしているが、相当数のレポートがその一方で、「女性であることで得をしている事例」「女であることをたてに苦役を回避している事例」の多いことをも指摘していた。
たいへん興味深かったのは、女子学生を標的にした「女らしくしろ」キャンペーンの「加害者」が「母親」と「バイトの店長」に集中していたこと。(まれに父親やボーイフレンドが「女らしくしろ」という意見を言うこともあるが、レポートを読むかぎり、彼女たちはそんな説教は歯牙にもかけていないようすである。)
だが、「母親」と「店長」からの「女らしくふるまえ」プレッシャーは抵抗するのが困難らしい。というのは、いずれも「非常に執拗」であり、反抗に対しては「制裁」をちらつかせるからである。
たぶん「母親」と「バイトの店長」たちは、女子学生が「ただ生物学的に女性である」だけでは「売り物」にならないということを知っているのだ。
彼らは、「女である」というのは、一種の「社会的な演技」であり、それを「演じてみせる」女性に対してのみ市場は「性的」値札を付ける、というジェンダー・リアリズムの信奉者である。
それゆえ、彼らは彼らの「管理している商品」であるところの女子学生諸君に執拗に「女らしくふるまう」ことを強要するのである。(そのように「女らしくふるまう」ことを学習した女子学生はその後「店長」のセクハラ攻撃の標的になる。)
女子学生たちはどうやらこの「セクハラ店長」を「日本の企業社会」というもの矮小化された戯画として見ているようである。
なるほど。
情け無い話である。
レポートのもう一つの特徴は、女子学生たちの、フェミニズムに対する共感の低さである。
私は教壇でずいぶんフェミニズムの悪口を言ったのだが、100枚近いレポートの中で、「ウチダ先生のフェミニズム批判はききずてなりません」というふうに咎めてきたものが一人もいなかった。(これは教師に反論して低い点数をつけられたらかなわんし、という計算もあるかもしれないから、そのままには受け取れないが)
しかし、「女らしさ」そのものの可否についてははっきり意見が分かれた。
だいたい三分の一「原則反対」、三分の二「原則賛成」。
つまり、人間には個体差しかなく、性差によって人間はその社会的なふるまい方を変えるべきではない、という「ジェンダー・フリー論」に与するものが、三分の一。いや、「女ならでは」の社会的なふるまい方を規定するジェンダー・コードには有用性がある、という議論に与するものが三分の二。
ジェンダー・フリー論は教科書的な通り一遍の記述が多かったが、ジェンダー・コード再評価論者の多くは彼女たち自身の経験に基づいて、「女らしくふるまう」ことの意義と生産性についてを語っていた。
そして、フェルマン=イリガライの主張する「女として語る言語の創出」については、賛成したものがひとりもなかった。
ことばなんか新しく作っても仕方がない。そうではなくて、いまあることばをどのように「使うか」が、どのように「レディメイドのことば」をもちいて「オリジナルな意味」を生成してゆくか、それが私たちの課題だ、という正論を書いた学生が何人かいた。
なかなか大したものである。
ウチダも感心。
これまで私たちは「セックス」と「ジェンダー」と二つの概念の切り分けでことを済ませてきたが、どうも「ジェンダー」概念もひとすじなわではゆきそうもない。
ジェンダー概念そのもののうちに「抑圧的・繋縛的」な契機と、「開放的・生成的」な契機がともに含まれている、と考えた方が合理的だろう。
ジェンダー概念そのものをまるごと否定したり肯定したりするのではなく、その中のネガティヴなファクターを抑制し、ポジティヴなファクターを支援する、というかたちで性差の問題は論じるべきではないか、ということをレポートを読んで感じた。
みなさん、どうもありがとう。刺激的なレポートでした。
(2002-06-12 00:00)