6月9日

2002-06-09 dimanche

『週刊SPA!』のインタビューがある。
私は定期刊行物をまったく読まない人間であるので、『週刊SPA!』がどんなメディアであるかぜんぜん知らないのだが、倉田真由美の『だめんず・うぉーかー』の掲載誌であるということだけは知っている。(『だめんず・うぉーかー』は先般、単行本全三巻をアマゾンで購入した。このマンガの重要さについては、いずれ稿を改めて本格的に論じなければなるまい)
くらたま先生と同じメディアに出られるとは光栄である。

「小林よしのりの『ゴーマニズム宣言』も『SPA!』ですよね?」

というウチダの不用意なひとことに、インタビューに来た編集者のI田さんの顔に「ちびまる子ちゃんの顔の縦線」が走った。(そういえば、数年前、小林よしのりは『SPA!』と大喧嘩して掲載誌を『サピオ』に換えたのだった)
すまない。
ウチダは世俗のことに疎いのである。
『SPA!』には猫十字社先生もマンガを連載されている。
猫十字社といえば「カリタ」と「メリタ」と「トラジャ」の三人組が活躍する超現実主義的なマンガの作者である。
ウチダが25年前くらいの青年時代に愛読していたのであるから、猫十字社先生ももう知命を越えられたであろう。まだ現役とは偉いものである。
きけば『SPA!』は25歳から35歳くらいまでの男性読者を想定している雑誌だそうである。
ウチダはあまりその年齢の男性を知らない。(大学の合気道関係者だけしかまわりにいない。彼らがどういう雑誌を読んでいるのか訊ねたことがないが、見た感じでは、『司法試験対策』とか『ル・モンド・エブドマデール』とか『月刊基礎工・道路橋示方書特集』とかいうコアなものを読んでいそうな感じがする)
しかし、「知らないことについても一家言ある」ウチダとしては、どのようなメディアからのどのような問いかけにもただちにお答えする用意ができている。
今回のテーマは「日本のダメな若者をどうやって更正させるか」というような趣旨のものであったかに記憶している。

私はべつにいまの日本の若者が「ダメ」だと思っていない。
たしかに「向上心」はない(知的にも、政治的にも、経済的にも)。
しかし、それは「脱亜入欧富国強兵立身出世」に一元化していた価値観がばらけたきたことの表れであって、「ダメだなー、おれは」といってへらへらしている諸君のおかげで社会的リソースの競合的争奪は緩和されており、マーケットがシュリンクしている時代においては「ダメである」ことは総体としてはクレバーな選択であるとも言える。
そういえば先日訪れた五月祭の東京大学本郷キャンパスの屋台村は、エイジアンフードの店が立ち並び、だらっとした格好をした若者たちが、でれんこと地べたに座り込み、強烈なアジア的香辛料の香りのなかで、つれづれなるままに昼酒を呷っていた。
この風景、どこかで見たことありますね、と同行の飯田先生が言って、ふたりで同時に思い出した。
これは香港のバンコクの台北の街路の、あの懐かしいアジアの街路の「たたずまい」そのままである。
明治維新から150年、ついに日本は進化の方向を逆転させて、「脱欧入亜」へのシフトを果たしたのである。
これでよいのだ、と私と飯田先生はうなずきあったのである。
日本のエリートと目される諸君が、女子学生は肌もあらわに、男子学生はとらえどころなき間抜け面をさらして、なすこともなく地べたに座り込み、どよんと酔いしれている図柄こそ、明治以来150年かけてようやく我が国がたどりついた「エルドラド」なのだ。
これでよいのだ。
わが国はこれから香港やタイやバリ島のような「エイジアンな」とした国になってゆくのである。それがひそやかな国民的合意なのである。
私は好きだぞ、バリ島。
東大生諸君も「本郷バリ島化」にますます邁進していただきたいものである。
それはさておき。

自分のことを「ダメ人間だ」とおもう日本の若者は統計によると73%である。
中国は38%、アメリカが40%ちょっとであるから、これはずいぶん高い数値だ。
だが、「ダメ」といっても、たいしてダメなことをしているわけではない。
朝、起きられないとか、同じ仕事が続けられないとか、部屋の掃除ができないとか、約束の時間に遅刻してしまう、とかそういうことである。
しかし、「私はダメ人間であると思う」と断言できる、ということは、二つの意味で健全であると私は思う。

(1)自分の社会的能力について客観的自己評価ができている
(2)私を「ダメ」であると規定する評価基準に対して(それに従っているようにみせながら)、やんわりと不信感を表明している

たしかに、「私はすぐれた人間である。それを認めて、私をもっと尊敬しろ」というようなことを言い立てる人間ばかりでは、世の中住み難くて困る。
お金があって権力があって情報があってアメリカでMBAとってきて英語がぺらぺらで外資系企業のヤングエグゼクティヴで・・・というような人間が汎通的な「理想像」とされるのは、社会全体にとってはあまりよいことではない。
だって、そんな条件を達成できるのは一握りの人間だけだからだ。
残る圧倒的多数は、条件を満たせずに、フラストレーションを抱え込むことになる。
集団的なフラストレーションを癒すための社会的コストは高くつく。
場合によってはものすごく高くつく。
アメリカがよい例である。
アメリカ社会が「人間の価値は年収で判定される」という価値観のせいで、どれほど成員たちをを傷つけているか。傷つけられた人々が渇望する「癒し」のために、どれほどの社会的リソースが蕩尽されているか。
この社会的コストのバランスシートはいまはかろうじて「黒字」になっているが、「赤字」に転じるのは時間の問題である。だが、このことに気づいている人間は少ない。これもまた稿を改めて論じなければならぬ重大な論件である。
それはさておき。

だから、私は社会的な達成目標はできるだけ低く設定したほうがよい、と考えている。
ほとんどの成員が「それなりに」社会成員としての資格条件を満たしており、「それなりに」余人をもっては代え難い社会的使命を果たしている、というふうに「思い込む」ことができるように社会は設計されるべきであると考えている。
みんなが何となく自足してにこにこほっこりしている社会の方が、一握りの人間がスペクタキュラーなサクセスを収め、大多数の人間がよだれを垂らしてその姿を羨望する社会より間違いなく住み易い。
だから、「私はダメな人間」と言う若者を叱咤し、「それではいかん」と圧力をかけることに私は反対である。
むしろ、そういう成員が一定数存在することは社会の安定のために必要なのである。
彼らは「役に立っている」のである。
彼らは「それと気づかずに」80年代のバブル期の「金がすべて」という歪んだ価値観を補正するために「そーゆーものは、オレはどーでもいいよ」というカウンターパートを提示しているのである。
どちらかといえば、日本社会は伝統的に「金とか名誉とか権力とかは、どーでもいーよ」という生き方に対して親和的である。「競争から降りる」人間に対して欧米社会は日本ほどには寛容ではない。
そのせいもあって、この世代には「向上心」をもたないダメ人間が大量発生した。
デートはラーメン屋、ふたりで六畳一間のアパートのTVで発泡酒を呑みながらサッカーを見て、休みの日には甲子園球場の外野席で阪神戦を見るだけで「ほっこりしあわせ」というような人々がマジョリティになりつつある。
六畳一間のアパートに住みながら、車はBMW、時計はロレックス、クリスマスには4万円のディナー・・・というような無意味な消費行動を繰り返しては、社会的上昇にむけて空しく疾走したバブル世代の金の使い方とは好対照である。
これはある種の「歴史的補正」の動きであって、その世代の個人の発意や意思にはあまり関係がない。
だから、若者個人をつかまえて「何やってんだよ。生き方改めて、もっと向上心を持て」と叱りつけてもどうしようもないのである。
世代というのはそういうマッスである。

ただ、話はこれだけでは終わらない。
この世代の歴史的機能は「ゆきすぎた蕩尽とアリヴィスムと競争の補正」であるので、ある程度修正がきいて、社会システムがうまく動きだしたら、(つまり「パイのぶんどり合い」から、ある世代がごっそり脱落することで競争が緩和され、シュリンクしたマーケットの中でのリソースの分配はそれなりに秩序を回復した場合)、この世代は次にはまるごと「棄てられる」ことになるからである。
彼らより若い世代とアジアからチャンスを求めて日本のマーケットに参入してくる若者たちは、彼らより高い地位、高い賃金、大きな権力、多くの情報を(彼らがスペースを空けてくれたおかげで)はるかに容易に手にすることができる。そして、後進に「スペースを譲った」ダメ世代は晴れて日本社会の最下層を構成することになる。
これは残念ながら避けられない。
いま15歳から35歳までの「ダメ人間」世代はあと20年後くらいには「スキルもないし、購買力もないし、知的生産力もないし、情報発信力もないし、政治的主張もないし・・・ひとことでいえば『どーでもいーひとたち』」として年下の世代から、ずいぶんぞんざいに取り扱われることになるだろう。

自分の世代が歴史的にどういうポジションにあり、どのようなミッションを委ねられているのか、ということをみきわめるのはたいせつなことである。
しかし、そういう時間軸でものを見る訓練ができている人間は非常に少ない。
「若者たち」は自分たちが先行する世代とは違っており、先行世代の価値観やマナーを批判し、その最弱の環を打ち砕き、のりこえるような趨向性をもっている、ということについては十分に自覚的である。
しかし、自分のあとから来る世代もまた彼らとは違ったしかたで、彼らの世代の価値観を否定し、かるがると彼らを乗り超えてゆくであろうということについて想像力を働かせることのできる「若者」はきわめて少ない。
その「きわめて少ない」若者だけが21世紀を生き残ることができるとウチダは思う。
経験的に言って、そのような平明な歴史感覚をもった若者が同世代の中に7%くらいいれば、とりあえず社会秩序は維持される。
7%を切ると、ちょっと危ない。
るんちゃんや多田塾の若いみなさんは、ぜひこの「7%変人群」に踏みとどまって、21世紀を生き残れるように、がんばっていただきたいものである。