6月8日

2002-06-08 samedi

久しぶりに「何もない」週末。
何もないと言っても、もちろん合気道の稽古はあるし、能は見に行かないといけないし、『週刊SPA!』の取材はあるし、入試問題を二種類作らないといけないし、女性学のレポートを100枚読んで点を付けるというような仕事はしないといけない。
それでも、ひさしぶりにたいへん暇な週末である。
これで「暇」なんだから、私が「忙しい」というとき、それがどれくらい忙しいものであるか、ご想像いただけるであろう。

暇なので、ショシャーナ・フェルマンが What does woman want? (邦訳は『女が読むとき、女が書くとき』)で展開している言語論を批判する論文を書いている。
フェルマンは私が知る限りもっとも知的節度のあるフェミニストである。(「知的節度のあるフェミニスト」というのは、「ダイエットにはげむワニ」というほどにレアな存在である。)
私はフェルマン好きである。(美人だし)
しかし、ウチダはフェミニストと戦うことを本務の一つとしているので、そんなフェルマンの書き物を心苦しくも批判しなければならない。
因果な商売である。
論件は「女として書く」parler-femme という理説の本質的な誤謬を徹底批判することである。
言語運用にジェンダーが関与することは誰にも明らかである。
「おれ」とか「ぼく」とかいう人称代名詞は男性に特化しているし、「わらわ」とか「あちし」とかいうのは、女性に特化している。(「おれ」を使う女子中学生などもいるが、あれは「おれ」が男性に特化された語法であるからこそ効果的なのである)
終助詞「ね」「わ」などの使い方も日本語の場合はきびしく男性語、女性語の違いがある。(欧米の言語にはそういうものはない。)
しかし、だからといって、「女性は女性を主語として語る言語を持っていない。だから女性がその内面を正確に記述し、その経験を適切に表現することのできるような女性にのみ特化した有性化された新しい語法を創出しなければならない」と主張するのは、まるでお門違いである。
このロジックには何の説得力もないと私は思っている。
前提が間違っているからである。
誰であれ、自分を主語として「その内面を過不足なく表現できる言語」などというものを持つことはできない。
誰であれ、自分の経験や内面を過不足なく語ることができないという事実は人類一般に妥当することであって、ジェンダーとは関係ない。
「男性は自分を主語として語ることができるが、女性はそれができない」といイリガライやフェルマンは主張するが、これは間違いである。
男性も自分を主語にして語ることができない、という点において女性と少しも変わらない。
「オレは男だからよ・・・」みたいなことを繰り返し断言している男は、できあいのストックフレーズを垂れ流しているだけであって、そこには内面も主体性もユニークさも、何もない。
ただのバカである。
そういうバカが「女性には許されない主体性を享受している」とお考えなら、そんなスカスカな主体性なんか、いくらでも差し上げますから、どうぞご自由にお持ち帰り下さいと申し上げる他ない。
私も男と同じようにバカになりたいというフェミニストを私は止めない。
しつこく言うが、自分を主語にして、自分の経験を完璧に、すみずみまでくまなく語りきれるクリアカットな言語、というものは理念としても現実としてもありえない。
そもそも言語というのは、それを語っている人間を根源的に疎外する、というかたちでしか機能しないものである。
例えば、私は「私は嘘つきでワルモノである」と自己規定している。
もちろん、これは私の内面のカオティックな心的状態について、ほとんど何も正確には伝えていない。
しかし、何か言わないと話が始まらないから、しかたなく、そういうことを言うのである。
「しかたなく言ったこと」について責任を取りつつ、話者自身をある事況に繋縛するいう仕方で私たちはコミュニケーションを起動させる。
とりあえず何か言わないとコミュニケーションは始まらない。だから何か言う。
その「何か」が100%ピュアな自己表現でなければならない、などという無体な条件をつけられては困る。
コミュニケーションのためのことばはそれ自体が「贈り物」なんだから、内容なんか何でもよいのである。
「ハイホー」で十分だし、「ふふふ」でも大丈夫。
「どちらまで」「ちょいと西銀座まで」なら、もう上出来である。
自己規定だって、それと同じだ。
私は自分のことを「嘘つきのワルモノ」である、と自己規定しているが、もちろんそう「思っている」わけではない。
私の「内面」にわだかまる無数の妄念をふたつの形容詞で包括できると考えるほど私は脳天気な人間ではない。
しかし、この形容詞の選択にはそれなりの意味がある。
少なくとも、「私は正直者の善人です」というのを私は忌避した。
この忌避については何らかの理由があったはずである。
その選択の意味は、私には分からない。
だからとりあえず口に出す。
すると、誰かが「ほんとにウチダって悪人だよね。現にこのあいだ・・」というふうにケーススタディを始めてくれる。
私はそれに耳を傾ける。
とりあえず何か言ってみて、それに対する応答を導き出すというかたちしか、自分の「内面」などというとらまえどころのないものを相手にする手段はない。
人間はつねに記号を使い過ぎる、とラカンは言った。
ラカンはつねに正しい。
人間はつねに言い過ぎるか言い足りないかどちらかであって、「言ったこと」が「言いたいこと」と過不足なくシンクロするということは絶対に起こらない。
必ず「言い損なう」という事実は万人に共通である。
しかし、「言い損なう」仕方は、ひとりひとり違う。
私は子どものころから、嘘ばかりついてきたが、その嘘のつきかたには、パターンがある。そのパターンを検知すれば、私がつく嘘から、私の思考形式を近似的に言い当てることもできる。
これを「嘘から出たまこと」と言う。
自分についての言及は、「必ず的を外す」。
だが、「的を外す仕方」は一定している。
その「自分について言及するときに、つねに失敗する仕方の同一性」という微分的な水準にひとりひとりの個性は定位される。
私はそういうふうに考えている。
だから、「女として語る語法」なんていう実定的な「モノ」を想定する必要なんかないと思うのである。
「女としてさっぱりうまく語れない語法」でも、「失敗する仕方の同一性」を検知するためには十分有用だ。
女であれ、男であれ、どのような言語を発明しても、自分の「内面」を過不足なく表現できる、というような事態は起こらない。
イリガライは「女として語る言語」なるものを提言して、じっさいに運用してみせたが、それは自意識過剰の女子高生の書いた現代詩みたいな気持の悪いものであった。
すべての女性があんなことばづかいで話し出したら、世界は地獄となるであろう。
ショシャーナ・フェルマンはイリガライほどバカじゃないから、それが空しい企図であることは重々承知のはずだ。
しかし、空しい企図と分かっていてなおフェルマンはその必要性を主張する。
ムダだと分かっていることをあえてなす場合、その理由は何か?
「あなたはそう言うことで、ほんとうは何を言いたいのですか?」というのはラカンによれば「子どもの質問」である。
私はその「子どもの質問」をフェルマンに向けているのである。

「フェルマンさん、あなたはほんとうは何が言いたいの?」

もちろんフェルマンも自分がほんとうは何が言いたいのか分からないので答えることができない。(自分が何を言いたいのか分かっているなら、フェルマンだってこんな本書かない)
だから、この問いにフェルマンは決して答えてくれない。
「女が何を欲しているのか、私には分からない」と言ったのはフロイトである。
フロイトはつねに正しい。(つねに正しい人が世の中にいるのは、実にたいへんにありがたいことである)

「女は何を欲しているのか、ウチダにも分からない」

もちろん、女性自身も「自分が何を欲しているのか」は分からない。
What does woman want? というのは男たちだけが発する問いかけであり、その答えも男たちが自分で考えないといけない。
そして、当然ながら、男たちの出す答えは、つねに間違っているのである。
でも、間違っていてもまるで構わないのである。
というのは、女が望んでいるのは、「自分が何を望んでいるか」を言い当ててもらうことではなく、「彼女は何を望んでいるのか」と自問して、さまざまな贈り物をするのだが、そのたびに「あたしが欲しいのはこれじゃないの」とつれなく拒まれて、呆然と立ち尽くす男の瞳に浮かぶ「女が何を欲しているのか、私にはどうしても分からない」という底無しの無力感の色を見て取ることだからである。

「女が何を望んでいるのか、男は決して分からない」ということが分かった男の絶望。
間違いなく女はそれを欲している。
ウチダが半世紀生きてきて、女について分かったのはそれだけだ。