6月7日

2002-06-07 vendredi

真栄平(まえひら)先生とお昼をご一緒したので、日本史についてレクチャーしていただく。
真栄平房昭先生はすでにこの日記にも何度かご登場頂いているが、私が敬愛してやまない同僚であり、私の発するどのようなシロート的質問にもたちどころに答えてくれる、「歩く歴史事典」のような日本史の泰斗である。
今回は、有事法制についての中日新聞への投稿の中で「歴史上、日本が有事を経験したのは五回だけである」などと思いつきで断言してしまったが、ほんとうにそうなのだろうかと(中学生のときの日本史の教科書と司馬遼太郎から得た知識だけで書いてしまったのので)不安になってお尋ねしたのである。
幸いなことに、「それでいいのです」と真栄平先生からのご確認をいただくことができた。
そのついで元寇のときの高麗であった「三別抄の反乱」の話を教えていただいて、
びっくりした。
あまりびっくりしたので、ホームページでその話をご紹介したい。

私はばくぜんと「元寇」というのは、元と高麗の「同盟軍」が手に手を取って日本に攻めてきたとばかり思っていたが、実は朝鮮半島で、それに先だって高麗は元の進攻によって長い苦しみを味わっていたのである。
北方からの契丹の進攻に苦しんでいた高麗は、元からの「同盟しない」というオッファーに苦し紛れに飛びついて、その結果、モンゴル人の巧みな外交術と武装侵入に翻弄されて、1260年屈辱的な講和条約を締結することになる。
元の次の標的は日本だということで、征東行省という日本侵略の軍事本部が高麗に設営される。
この「日本侵略の出撃基地」としての高麗の地政学的な規定が1368年の元滅亡まで、元が高麗を植民地的に支配することを正当化することになる。(どこかの国のどこぞの基地の話と似ているね)
ところがここに1270年、三別抄という武人が登場して、反モンゴル・ゲリラ政権を立てて、猛然とパルチザン的な戦闘を開始する。
高麗全土がこの反乱に呼応し、一時期は攻勢に出るが、モンゴルに内通するものが出て、内部分裂。三別抄は済州島に拠って、海賊行為を展開した。
結局、1273年にモンゴル軍、漢軍、高麗軍の連合軍による総攻撃で、済州島は陥落して反乱は鎮圧されてしまった。
この反乱には注目すべきことが二点ある。
一つは1270年から73年にわたる三別抄の乱によって、元の日本侵攻が三年遅れたこと。(文永の役は1274年、つまり済州城陥落の翌年)そして、三別抄の反乱を鎮圧するために元軍が大きな軍事的な代償を支払い、そのせいで74年段階では、征東作戦に当初のエネルギーがなくなっていたこと。
もう一つは、三別抄が1271年に日本に使者を送って、援軍を求めていたこと。(これは1980年代に発見された歴史的新事実だ)
三別抄は朝鮮半島の正統政権として、日本と平等互恵の外交関係を結び、兵糧と「援兵」の提供を求めた。つまり、1271年の段階で、高麗の三別抄は日本の北条政権に対して、対モンゴル軍事同盟を締結しないか、というダイナミックな外交的選択をオファーしてきたのである。
しかし、日本側は評定でぐずぐずするばかかりで、結局、この申し出の真意を理解できず、「どうもモンゴルが来るらしいから、九州の防衛を固めよう」という内向きの指示を出すだけで、三別抄を孤立無援のうちに棄てたのである。

以上が、真栄平先生から教えていただいた元寇秘話である。
そこで、私と真栄平先生のおしゃべりは、「もし、三別抄の乱のときに、北条政権に国際政治を理解するセンスがあって、済州島に援軍を送っていたらどうなっていただろう」というSF的展開を見ることになった。
元に勝っても負けても、その後の日朝関係はずいぶん違う展開を見ることになっただろう。
世界最強帝国の武力侵攻に、二つの国が力を合わせて抵抗したという「共闘の記憶」は、半島と列島のあいだに、おそらく私たちが知らないような種類の信頼と尊敬の感情を形成することになっただろう。
ほんのわずかな外交的判断の誤りが、その後数世紀にわたって国際関係を損なうことの、これは一つの見本のような話である。
日韓共催のワールドカップで人々は盛り上がっているようであるが、私たちのあいだにどんな歴史があったのかだけでなく、どんな歴史が「ありえたのか」についても、たまには想像してみることも必要ではないかと私は思う。