6月5日

2002-06-05 mercredi

鷲田清一さんの『時代のきしみ-〈わたし〉と国家のあいだ』(TBSブリタニカ)を読む。
書評を頼まれたのである。
書評というのは、割のよいバイトである。
タダで本が読めて、読書感想文を書くとお鳥目がいただけるのである。
つねづね申し上げているように、私は書評ではけっしてひとの本をけなさない。
調子に乗ってけなした場合、あとで著者本人とお会いしたときに、ドブを這って逃げなければいけないからである。(ウチダの世間は、もうこれ以上狭くするわけにはゆかないほどすでに狭い)
さいわい、鷲田さんの本は読みやすい。
内容はかなりむずかしいし、ことばづかいも独特であるのだが、「いいたいこと」がはっきりしているので、読みやすいのである。
鷲田さんが「いいたいこと」は、要するに、「〈わたし〉の言っていること、〈あなた〉には聞こえてますか?」ということである。
なんだ、簡単な話じゃん、と思われた方もいるだろう。
そうでもないんだよ。
このひとことを「わたし」とは誰か、「あなた」とは何ものか、「〈わたし〉が言っていること」とはどんなことばなのか、「あなた」に「ことばが届く」とはどういうことか・・・というふうにぐいぐいと問い詰めてゆくと、私たちはいつのまにか哲学の根本問題に触れてしまうことになるのである。
鷲田さんの「他者論」の構制は、レヴィナス老師の「他者論」と通じている。
ただ、鷲田さんは、レヴィナスの他者論=倫理論の基本にある「選び」という概念をあまり気にしていないように思われた。
「選び」という概念装置を参加させないと、「他者の歓待」を「それぞれの傷つきやすさの相互承認」によって基礎づけるしか手がない。
相互承認というのは、つまり、「あなたは私にとって他者であり、私はあなたにとって他者である。おたがい、相手に承認され、受け容れられないと、つらいことばかりだから、ここはひとつ承認し合うことにしません?」という功利的な計算を前提としている。(現に、ロックやホッブスの市民社会論はそのような「不快の相称性」にもとづいて道徳を構想している)
それは言い換えると、すでにして価値観なり度量衡なりを「共有」している〈わたし〉と〈あなた〉のあいだでしか、相互承認ということは起こらない、ということである。
しかし、ほんらい「他者」というのは、私と度量衡を共有しないものの謂いである。
ここにアポリアが生じる。
レヴィナス老師はこのアポリアを解くために、他者と私の関係は「非対称」だという理説を立てた。
「私はあなたを歓待する」ということばを「私」は何があっても「先に」発しなければならない。
有責性は「あなた」を押しのけて、「わたし」が先取しなければならない。
「せーの」でお互いに同時に言おうね、という話ではない。
(相手がそれに応えようと、無視しようと)「先に」歓待すること-それが「私」の主体性を基礎づける、というのがレヴィナス老師の創見なのである。
この「選び」と「自他の非相称性」の理説に言及しないでレヴィナスの他者論を祖述することはたぶんできない。
その点については、鷲田さんがレヴィナスを祖述した本書の87頁から93頁にかけて、ウチダはちょっと不満を感じたのである。
もちろん書評にはそういうことは書かない。(レヴィナスの他者論と鷲田さんのレヴィナスの祖述のあいだにどういう齟齬があるかを800字以内で論証する、などという芸当は誰にもできない)
ま、それはさておき。
鷲田さんは(廣松渉とならぶ)「ネオロジスム」(新語)の名人なのだが、この本の中にもかっこいいネオロジスムが散見された。
ウチダがいちばん気に入ったネオロジスムは「オートタナトグラフィ」である。
次のような文中に出てくる。

「同一的なものとしてのこのわたしとは、つねにすでに後から記憶として綴られるもの、つまりオートバイオグラフィ(自伝)ではなくオートタナトグラフィなのである。」(166頁)

autothanatographie 「自死誌」というのは、「自伝」の反対に、「自分がどんなふうに死んだか」を「私」を主語にして記述するテクストのことだ(と思う)。
これは刺激的な概念だ。
私はブランショの『文学と死の権利』を思い出した。

「作家は書くことによって自分自身が虚無だということを体験し、書いたあとでは自分の作品が消え失せるものだということを体験する。作品は消える。しかし、消えるという事実は残り、本質的なものとして立ち現れる。」

まったくいつ読んでも、ブランショの決めの台詞は鳥肌が立つほどかっこいい。
作品は消える。しかし、「作品が消えた」という事実は残る。
死誌とは(私の理解が正しければ)「私は死んだ」と書き記されたテクストのことだ。
「私は死んだ」と宣告することによって、「私が死ぬ」前には「私が生きていた」ことが(証明抜きで)滑り込んでくる。
文学とは、そこになかった何かを「そこに何かがあった」と唱えて呼び出す魔術ではない。
「そこから何かが消えた」と告げることによって、そこになかったものをあらしめる魔術なのだ。
「私は死んだ」というのは、「私が存在した」ことをどのような存在証明よりも堅牢に支えることばなのだ。
そう考えると松下くんが『映画は死んだ』というタイトルに固執した理由も分かるね。