6月4日

2002-06-04 mardi

ウチダは前言を撤回すること風のごとく疾い。
本日付けの「e-メール時評」には、偉そうに「私はサッカーには何の関心もない」などと書いてあるので恥ずかしいのだが、実は夜毎、ウィスキー片手にW杯サッカー中継をわくわくしながら見ている。
実はサッカー見るの、けっこう好きなのである。
何を隠そう、村上龍の『フィジカル・インテンシティ』は全巻揃えているし、小田嶋隆のホームページのサッカー評もすみからすみまで丹念に読み込んでいる。
私は、ただ、サッカーであれ野球であれラグビーであれ、それについて人と話すのが嫌いなのである。
とくに居酒屋のカウンターのようなところで、スポーツを話題にするのが嫌いである。
ひとりで黙ってTVを見て、ひとりでどきどきして、ひとりで笑ったり、怒ったりして、そのまま黙って寝る。
私はそういうのが好きだ。
なぜ、誰ともスポーツの話をしないかというと、誰も興味がなさそうなことばかり考えているからである。
私が深く沈吟してしまうのは、「どうして人間はボールゲームが好きなのか」という種類の抽象的思弁である。
星野の投手交代がどうであるとか、トルシエのディフェンス構想がどうであるとかいうことにはぜんぜん興味がない。
野球監督の選手起用を「会社経営」や「人心掌握術」のレベルで語るのは、ボールゲームの愉悦を、「日常の水準」に貶めることである。
「遊び」というのは、それに基づいて「日常生活の改鋳」が始まるような劇的な契機であって、「日常生活の価値観」をノベタンで「遊び」に適用して分かったつもりになってしまうのでは、そもそも何のために「遊び」を享楽するのか分からない。
いしかわじゅんのマンガに「麻雀は人生の縮図だよな」という台詞を言うサラリーマンたちの雀卓をひっくり返して、「そういうことをいうやつが、俺は一番嫌いなんだ!」という男が出てくるけれど、私はその気持がよく分かる。
麻雀は「人生の縮図」なのではない、むしろ人生の方が「麻雀の縮図」なのだ。
「遊び」は、私たちが孜孜として営んでいる「日常生活」より遥かに太古的な起源を有する、ずっとディープで摩訶不思議な活動である。
私たちが愉しんでいる「遊び」の方が、私たちがしている「仕事」より、はるかに歴史が長く、はるかに人類学的な必然性がある。(「金を儲けたい」とか「有名になりたい」とか「自分らしく生きたい」などということを人間が言い出したのは、ほんの最近のことであるが、サッカーを始めたのは数十万年前である)
私はスポーツ新聞というものが嫌いで一度も自分で買ったことがないが、それはこのメディアが「遊び」の非日常性を愛しているかに見えて、その実「遊び」を日常的な価値観の枠組みに縮減することをその使命としているからである。
それは私が芸能メディアに対してもつ嫌悪感と同質である。
芸能というのは、スポーツ同様、非常に奧の深いものだ。
私たちがそれに惹かれるのには近代的な価値観では決して律しきることのできない「何か」がそこにあるからだ。
それを「色と金」という、哀しいほど現世的な価値の枠組みの中で読み換える、というのが芸能=スポーツ・メディアの本質である。
私はそこに芸能やスポーツというもののはらむ呪術性や祝祭性に魅了される、人間の心性への敬意や好奇心を認めることができない。
年俸がいくらであるとか、家庭の事情がどうであるとか、そういう「せこい話」を「遊び」については語って欲しくない。
そんな取材をする暇とエネルギーがあるなら、そのひとのプレーの「どこが」美しいのか、そのひとの動きの、声の、オーラの「何が」私たちを魅了するのか、そういう本来的な主題のために時間を使ってはくれまいか。
あらゆる問題についてつねに炯眼なロラン・バルトはボールゲームの本質についてこう書いている。

「多くの物語においては、ある一つの獲得目標をめぐって、二人の対立者が競い合っている。彼らの〈行動〉はそれゆえ等格的である。主体とは本質的に二重化されたものなのだ。おそらくこれが古代における物語の一般的形態なのである。この〈決闘的=双数的関係〉に私が興味を惹かれるのは、それが(きわめて現代的な)ゲームと物語とが近親関係にあることを教えてくれるからである。これらの現代的なゲームでも、やはり二組の等格的敵対者がある目標を獲得しようと競い合っており、その目標物は審判によってコントロールされているからである。」(『物語の構造分析序説』)

もちろんフランス人であるバルトがここで言っている「きわめて現代的なゲーム」とはサッカーのことである。
バルトはこの論考のなかで、構造主義物語論の古典、ウラジミール・プロップの『昔話の形態学』の知見を祖述しながら、「物語」が私たちの生活のあらゆる場面を構造化していることを解明してみせた。
バルトの主張は簡単である。
私たちが「物語」を消費し利用しているのではなく、「物語」が私たちを存在させているのである。
サッカーは人生の縮図なのではない。
逆に人生がサッカーの縮図であるわけでもない。
私たちの人生もサッカーも、いずれもが、同じある「根源的な物語」の変奏曲なのだ。
あらゆる人間的事象に伏流する物語。
私はそれが何だかを知りたくて、サッカーを見ている。
その「起源的な物語」については、とりあえず二つだけ分かったことがある。(さすが長年、TVを見ながら抽象的思弁に沈吟してきただけのことはあるでしょ)
一つは「人間は神聖不可侵の審判者を設定しない限り人間であることができない」ということであり、もう一つは「人間はパスしない限り人間であることができない」ということである。
ことばを換えて言えば、人間とは「神を信じ」、「他者に贈与する」ものだ、ということである。
私たちはこれと同じ原理をさまざまな場面で繰り返し聞かされている。

「イエスは彼に言われた。『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』。これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」(『マタイによる福音書』、22:37-40)

ほらね。
マタイ伝のことばをそのまま借りれば、「『審判に従え』、『ボールを占有するな、贈与せよ』、サッカーゲーム全体はこの二つの戒めにかかっている」のである。
サッカーがなぜ宗教的な「遊び」なのかといえば、それは「ゴール」というものが「自分のゴールに球を奪い取る」のではなく、「他者のゴールに球を贈り届ける」というかたちをとってるからである。
「ゴール」とは無償の贈り物なのだ。
できるだけ多くの「贈り物」を相手のゴールネット内に贈り届けたものが、圧倒的な心理的優位を味わうことができる。
逆に相手に贈り物を届けることのできなかったもの、自陣のゴールにボールを「回収」してしまったものは、深い屈辱を味わうことになる。
ほらね、これって「ポトラッチ」とおんなじでしょ?
サッカーは人間たちに「人間とは何か」という根源的な問いについて省察する機会を提供するために存在する「遊び」なのである。
その点で、「プレイヤーがホームに戻る」というかたちでゲームが終わるアメリカン・ベースボールは哀しいほど近代的な遊びだと私は思う。
このゲームが150年かけてアメリカの外では、日本と韓国と台湾とキューバとメキシコ以外の国にはまるで根付かなかった理由が私にはなんとなく分かるような気がする。
最後に「プレイヤーがアウェーに去る」ことでゲームが終わるベースボールがあれば、私はもっと熱心にナイターを見ているかもしれない。