6月3日

2002-06-03 lundi

洋泉社からのオッファーにつづいて、こんどは新潮社からもオッファーをいただく。
いずれも『「おじさん」的思考』をお読み頂いて、「こういう感じの時評的なものを・・・」ということでの企画のご提案である。
私もどんどこ本を出すにまるでやぶさかではないのであるが、すでにバックオーダーが7冊たまっているので、ここで気楽にお受けしても、私が生きているうちに原稿をお渡しできるかどうかが分からない。
というわけで事情を懇々とお話しして、他の出版社と同じく、「ありもの」原稿でよければ、いくらでも・・・とご返事するが、とりあえず新潮社とは委細面談ということになった。
「おとぼけ映画批評」をお薦めさせていただこうと考えている。
「おとぼけ・・・」は文春と晶文社には売り込んだのであるが、「映画批評は売れません」ということで却下されてしまったのである。愛着のあるコラムなので、ぜひどこかで新書化していただきたいものである。

二週間ほどまえに『中日新聞』から有事法制関連法案についてのエッセイを頼まれた。
有事法制について、私には別に何の「定見」もないのだが、お座敷がかかれば、どこへでも顔出しする「文化芸者」稼業の年期明けまでは(あと指折り数えて六ヶ月)、どんな主題であれ、にっこり笑ってほいほいお受けする。
これも、電話を切って、そのまま何の準備もせずにさらさらと書いてお送りした。
5月末の中日新聞と東京新聞に掲載されたはずである。
このサイトの読者の中にはその新聞をお読みになっていない方が多いだろうから、再録することにする。(原文は字数制限があったので、ちょっと改行、加筆してある)

「有事法案について」

現在、議論されている「有事」法案は、わが国にとっての「有事」とはどういう事態であるかを真剣には考慮しておらず、それゆえ、「国家危急存亡の秋」に際会したときに、たぶん何の役にも立たない。私はそう思っている。以下にその所以を述べる。
「有事」とは何か。まず、その根本のところから考えてみよう。
日本史を繙くと、わが国が「有事」の呼称にふさわしい武力攻撃を経験したことはそれほど多くない。まじめに数えると、二度の元寇と薩英戦争と馬関戦争と沖縄戦、この五回だけである。
728年間に五回。薩英戦争と馬関戦争では、鹿児島は市街の一部を焼かれ、長州藩は砲台全部を壊されたが、戦死者は数名にとどまり、戦闘期間も三日にすぎなかった。
この二つの象徴的攘夷戦をとりあえず除外し、さらに元寇を「あわせて一回」と数えると、わが国が「大侵略」を経験する歴史的インターバルは364年という数値が得られる。
これを単純に当てはめると、「次の有事」の訪れは、確率的には2309年ということになる。(そのころまで日本があれば、の話であるが)
もちろん、「有事」の時間的間隔の平均値そのものには何の意味もない。しかし、それから知れることもある。それは、「真の有事」というのがきわめて例外的な事例であるということである。
日本が経験したそれ以外の「外患」は、実はほとんどが「日本が他国を侵略した」ことに端を発しているのである。(あらかじめ侵略準備を進め、自分の方から仕掛けておいて、「一朝有事」はないだろう。)
もう一つ気づくことがある。それは、わが国がこれまで経験した五回の「有事」については、その相手方がすべて世界の「スーパー・パワー」だということである。
モンゴル帝国、大英帝国、フランス帝国、そしてアメリカ合衆国。なんと堂々たるラインナップではないか。
つまり、日本史上における「有事」とは、同盟者のいない孤立無援の局面で、世界に冠絶する超大国による武装侵略を受けることだったのである。
歴史的基準をあてはめて言うことが許されるなら、それ以外の戦闘はおよそ「有事」の名に値しない。
だからこそ「有事」への「備え」がますます必要となるなのではないか、とさらに反論する人がいるかもしれない。
本気でそんなことを言っているのだろうか。
そうおっしゃる夫子ご自身、本気で「孤立無援」で「世界最強国」と戦うだけの「備え」をする覚悟がおありなのだろうか。
私は懐疑的である。
というのは、現在の世界最強国はアメリカ合衆国であり、そのアメリカはわが国の「軍事同盟国」だからである。そうである以上、論理的に考えれば、この国際関係論的文脈において、「有事」と呼ばれる事態は次の二つの場合しかありえない。

アメリカが日本を侵略する。
他国が日本を侵略するのを、アメリカが黙許する。

この二つの事態だけが真に「有事」の名に値する危機的事況である。
しかるに、現在の「有事」法案議論では、誰一人この危機の可能性には論及していない。
「在日米軍が攻撃されたらどうするのか?」という問いかけはあるが、「在日米軍が攻撃してきたらどうするのか?」という問いかけは誰も口にしない。
たぶんその問い自体を思いつかないのだろう。
つまり、「有事」を熱く語る有事法制推進派の政治家諸氏こそ、それと知らぬうちに骨の髄まで「平和ボケ」してしまったせいで、「真の有事」とは何かを想像することさえできなくなっているのである。
そのような人々が「リアリズム」の名において反対派の平和主義を嗤うのは、天に向かって唾を吐くに等しい所業である。
「真の有事」は決して到来しない、世界最強国は忠実な同盟国として永遠に日本の安全を保障してくれる、というゆるぎない主観的願望の上に策定された「有事法案」、私はそのようなものを「有事」法案と呼ぼうとは思わない。
ぜひ「無事」法案と呼ばせて頂きたいと思う。