兄ちゃんがやってくる。
兄ちゃんからはビジネスの世界の話を聞く。
先日聞いた平川くんの話とほんとうによく似ている。
兄ちゃん曰く。
ビジネスで金を儲けようとするのは愚かなことだ。
お金もうけはビジネスの目的ではない。
ビジネスというのは音楽を演奏したり、美術作品を作ったり、小説を書いたり、哲学をしたりするのと同じように、「贈り物」をすることだ。
その対価としてお金が入ってくることはあるけれど、それはただの「結果」にすぎない。
ビジネスとは他者とのコミュニケーションであり、さらに言えば「他者への愛」なのだ。
私は「善きこと」を為したいのだよ、タツル。
ところが、驚くじゃないか、「お金なんか儲ける気がない」でビジネスをすると、なぜかじゃんじゃんお金が入ってくるのだ。
おおこれはありがたい、ということで、それをじゃぶじゃぶ使って、さらに人々にステキな「贈り物」をする。
すると、さらにじゃんじゃんお金が入ってくる。
悪循環だな。
とはいえ、もちろん私には恒産などというものはない。
ほとんど無一物であるといって過言でない。
だって、入ってくるお金はどんどんつぎのビジネスモデルに投資しちゃうからね。
にもかかわらず、いや、そうだからこそ、私の手もと通り過ぎてゆくお金、つまり私に「使い道を考えて欲しいといっって託される」お金は毎日どんどん増え続けるのだ。
兄ちゃんのビジネス講話は先般の平川くんの話とまるでそっくりだ。
彼らがふたりともワールドワイドな成功を収めたのは、基本的に「成功するために」何かをするのではなく、「他人のために何かをしてあげたい」とまず考えてきたからだ。
少なくとも、彼らはそう説明している。
彼らが求めたのは、他者の喜びを通じて、それを「もたらしたもの」としての自己承認を果たすことである。
このビジネス戦略は驚くまいことか、ほとんど「キリスト教」の教えそのままなのである。
だとすると、「愛神愛隣」を建学の理念とするわが大学など、それと気づかぬうちに、ビジネス的には大成功してよいはずである。
よい「はずである」。(しつこく強調)
もしなっていないとするならば、それは「キリスト教主義」が経営面・教学面において徹底されていない、ということにはならないだろうか?
「学生の喜び」を見て、それを「もたらしたもの」として自己承認を達成することを職業的エートスの基礎づけとしている経営者・教職員が十分には存在しない、ということにはならないのだろうか?
(2002-06-01 00:00)