5月31日

2002-05-31 vendredi

『女性セブン』という雑誌からインタビューを受ける。
なんで? ウチダが女性週刊誌から? と驚かれる方が多いであろう。
私だって驚いた。
聞けば「精神年齢と実年齢」についての小特集を組むので「実年齢に八分の五を乗すると精神年齢が得られる」という「八分の五」理論の提唱者であるウチダ先生から専門的知見をおうかがいしたいというのである。
えーと、すみません。
あれ(e-メール時評に書いたコラム)は、何の学問的裏付けもない、ただの「思いつき」です。まさか本気で科学的な理論だと取る人がいるとは思いませんでした。

「では、なぜ八分の五なんですか?」
ほら「八分の五チップ」ってあるじゃないですか。
「ハチブンノゴ」って語感がいいでしょ? だからなの。
「そ、そんなー(泣)」
ははは、世の中そんなものですよ。では、さようなら。

と立ち去ろうと思ったが、先方も必死で追いすがってくる。
こちらも若い記者の熱情にほだされて、あまり意地悪ばかりでは申し訳ないので、「精神年齢ヴァーチャル説」という(その3秒前に考えついた)学説を開陳する。(それを延々1時間にわたって展開したんだから、私もほんとうに生来の詐欺師である。)

いわく精神年齢などというのは完全にヴァーチャルなものであって、誰でも自分で勝手に決めてよいのである。
徒然草は吉田兼好20代から晩年までのエッセイの断片だが、どれが20代に書いたものだか分からないでしょ?
それは彼が「ヴァーチャル爺い」という想像的な視座を選び取って、そこから書いているからである。
精神だけ「老成」させたこどもが世の中を眺めて書いていると、あら不思議、ほんとうの「じじい」が書いていることとほとんど寸分違わないのである。
夏目漱石だって、けっこうな若僧のときに「則天去私」なんてうそぶいているのである。
子どものときに方丈記を英訳したりしてるんだから、はじめから確信犯的な「ヴァーチャル爺い子ども」だったのである。
昔の人はそうやって、実年齢より多めに年齢を偽り、青年なのにちゃっかり「翁」なんて名乗って、俗世を離れた花鳥風月の詩境を愉しんだのである。
その伝統は13世紀の吉田兼好、鴨長明から始まり、成島柳北、正岡子規、夏目漱石、森鴎外、永井荷風・・・と連綿と受け継がれてきた。
誰でも精神年齢を好きに選ぶことができる。
どんな「老人」を想像的に造型するかを青年たちは知的遊戯として愉しんだのである。
そして、現に明治、大正、昭和の途中までは、「あんなふうになりたい老人」のロールモデルが若者たちの周囲には、豊かに存在した。
読むと分かるが、『我輩は猫である』の苦沙彌先生と弟子の寒月くんのあいだにはほとんど年齢差がない。
苦沙彌先生は、実は唐沢寿明くんくらいの年齢で、寒月くんは浅野忠信くんくらいの年齢なのである。
それにもかかわらず彼らのあいだで師弟関係が健全に機能しているのは、苦沙彌先生がすすんで「ヴァーチャル爺い」を演じており、寒月くんや東風くんも、すましてその「幻想の老人」と対話しているからである。
むかしの人は、そうやって擬制的に「老人」になったり、「ヴァーチャル爺い」の説教を聞いたりする「遊び」が大好きだった。
それは「擬似的老人」は「世俗の栄達競争レースから降りた」ことの代償に、どれほど冷笑的になっても、批評的になっても構わないという「治外法権」を許されたからである。
もっとも制約のない批評性を獲得するために、くそ生意気な青年たちは「爺いぶり」を競ったのである。

残念ながら、その知的習慣は失われた。
どういう理由でかは分からないが、とにかく「爺いぶりを競って遊ぶ」ということは知的なサークルでは流行らなくなくなった。

かわりにみんな「若者ぶる」ようになった。
人々は実年齢よりも精神年齢を低くセットすることに躍起となっている。
「爺い」なのに物欲色欲旺盛で、てらてら脂ぎり、「婆あ」なのに、厚化粧ぬりたくって、唇に紅をさし、「ひひひ」などという嬌声を上げる人間たちがそこらじゅうにわさわさしている。
最新流行にいそいそとキャッチアップし、どこへでものさばり出て、社会的リソースを独り占めしようとする、こうるさい「ヴァーチャル青年」たちで世の中は息が詰まりそうだ。
だからそれに押し出された18歳の大学生たちが、ちょっと前の小学生くらいの精神年齢になってしまったことは怪しむに足りない。
最近の高校生の中にはズボンを腰骨の下まで下げて、裾をずるずるひきずりながら歩くものがしばしば見られるが、あれはご承知のように、3歳児くらいの男児のズボンの履き方である。
というわけで、「八分の五」時代とは、別に社会の責任でもなんでもなく、人々が自分で選んだ「低い年齢」に合わせて生きているということにすぎないのである。
全部自己責任である。
年齢というのは、自分で決めるものである。
だから、私は「私は子どもです」と自己申告する人は頭のはげた親爺でも子ども扱いするし、「私はおとなです」と名乗って大人らしくふるまう人は、たとえ幼稚園のスモックを着ていても、大人として遇することにしている。