5月30日

2002-05-30 jeudi

『「おじさん」的思考』の売れ行きが順調であるらしい。
初版は店頭から消えてしまい、兄ちゃんがアマゾンで頼んだら「品切れ」という返事が来たそうである。
二刷で3000部刷るのだけれど、これは書店からのバックオーダーでそのままなくなってしまうので、ただちに三刷りに入るそうである。
景気のよい話である。
10.000部というのはウチダにとって「未知の領域」テラ・インコグニタである。
ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』は人文書としては例外的に9000部売れたのだが、その当時、東京の市内では、街を歩いている人たちがその本を小脇にかかえている光景が随所で見受けられたそうである。(ほんとかしら)
ともかく、それがほんとうだとすると、私も生まれてはじめて「自分の本を読んでいる見知らぬ人」というものに偶然遭遇する、という機会に恵まれるやもしれぬ。
それってどういう気分のものだろう。
村上春樹によると、書店で自分の本を買っている人を見ると、心臓がばくばくいうらしい。
思わず手をとって「ありがとう!」と言いたくなるかもしれない。
一度、暇なときにジュンク堂か紀伊国屋に行って、自分の本をどんな人が手に取るのか観察してみたい気がする。

だが、それは、自分の名前で検索をかけて、誰がどんなことを言っているのか知りたい、というのと同じで、ある意味では危険なことだ。
私は子どものころから、人を怒らせてばかりいた。
長じてもその傾向は少しも改善されていない。
だから「2ちゃんねる」というようなコワイところには絶対に足を踏み入れない。
平川くんも甲野先生も小林先生も「2ちゃんねる」で自分についてどんなことが書かれているか、ときどきチェックしているそうである。
すごい精神力だと思う。私にはとてもできない。
私は自分が「嘘つき」で「ワルモノ」である、ということは言われなくても知っているので、(ほんとうは「言われて知った」のだが)いまさら、そのことを誰かに指摘されて「目が醒めて、正直者の善人になる」ということ起こらない。(なれるもののなら、もうなっているであろう)
経験的に言えることは、自分の悪口を聞いて気分がよくなる可能性は限りなくゼロに近い、ということである。
別に「2ちゃんねる」にまで行かなくても、私の周囲には私にびしばし批判をしてくれる人々がいる。
彼らはその固有名の責任において、私からの執拗な反撃を受けるというリスクを取った上で、私を批判している。
私はそのような「身銭を切っての」批判には注意深く耳を傾けるようにしている。
だから、本人は何のリスクも冒さないところから発せられる匿名での批判にはいっさい耳を貸さない。
平川くんによれば、「リスクを取る人間だけが、レスペクトを受け取る」。
リスクを取らない人間は、誰からもレスペクトされない。
私はこの考え方を正しいと思う。
もちろん、匿名であっても、批判が内容的に適切であり、有意義である可能性はいつだってある。
けれど、その匿名の批判者を私は「人格」としては扱わない、ということである。

『週刊ポスト』の読書欄で、鷲田清一さんが『「おじさん」的思考』を書評してくれている。
好意的な書評だったので、うれしくなる。
すると偶然にも共同通信から鷲田さんの新著の書評を頼まれた。
こうなると、もう「倍返し」でゆくしかない。(鷲田先生。気合い入れてほめさせていただきます。オッス)
そうでなくても、私は書評ではつねに「ほめる」ことに決めている。
本の「欠点」を探すのは簡単だ。(人名表記が原音と違う、とかね)
でも、本の「いちばんすばらしいところ」を探すのはけっこうむずかしい。
それはしばしば本に「書かれたこと」ではなく、むしろその本を「書かしめた」著者の「言い足りなさ」としてしか語れないからだ。
「書きたかったんだけど、うまくことばにならなかったこと」を聴き取ろうとして本を読む、という読み方が私は好きだ。
それがいちばん「生産的な」本の読み方だと思うからだ。
それはこのあいだ書いた「武道の術技の継承」の心構えにも通じると私は思う。
とかいいながら、『ザ・フェミニズム』の書評では、それほどフレンドリーじゃなかった。
ウチダもまだまだ修業が足りない。
上野千鶴子を絶賛できるようになったら、そのときは「ウチダもけっこう大人になったね」と言って頂けるであろう。(その日めざして、がんばろう)