5月21日

2002-05-21 mardi

いきなり「説教モード」全開となってしまった。
F121フランス語文法のクラスで、宿題の採点が終わって、答案を回収しているあいだに、それまでしんとしていた学生たちが、一斉にわいわいしゃべり出したからである。

私語を止めるように。
なぜ、教室で私語をしてはいけないか、それについて今から先生がご説明しよう。
長い話になるから覚悟しておくようにね。

教室における教師と学生の関係は、非対称的な関係である。
教師が一方的にしゃべり、学生は黙ってその話を聞く、ということが基本の構図である。
どれほど退屈で無内容な話であっても、制度的に学生はそれを拝聴しなければならない。
教師は、一方的に「じゃ、抜き打ちテストをやる」とか、答えられないむずかしい質問を発したり、いきなり怒鳴りつけたり、ねちねちイヤミを言ったりする「権利」を担保されている。
もちろん、それに抵抗する権利は学生にもあるが、その場合は「ふん、じゃ君は単位が要らないのね」と出席簿に赤々と「不可」と書き込む権利は教師に属する。
つまり教室というのは、教師が権力を独占し、学生はほとんど無権利的な状態に放置されている場なのである。
となると、学生としてまず考慮すべきことは「ディフェンス」である。
いかにして、教室における教師との非対称的関係を「傷つかずにやりすごすか」ということが学生にとって喫緊の課題となる。
その方法は一つしかない。
それは「教師の話を熱意を込めて拝聴している恭順なる学生」のふりをすることである。
これが無権利状態にある学生にとってもっとも効果的なディフェンスである。
教室におけるこの関係は、社会の縮図である。
諸君の大半は、このあと社会人となって働くことになるが、20代の労働者の社会経験のほとんどは「権力を持つ人間に一方的に査定され、いたぶられ、こづき回される」というかたちで進行する。
この状態は諸君が周囲から十分なレスペクトを受けるだけの社会的能力を獲得するまで長々と続く。
諸君は、「では、どうやってすばやくそれだけの社会的能力を身につけるか」というふうに前向きに発想するだろうが、それだけでは十分ではない。
それ以前になすべきことがある。
それは「自分を守る」ことだ。
権力を持つ人間からの攻撃によるダメージを最小化することだ。
ダメージを最小化するためには、自分を傷つけ損なう可能性のある人間の前には、できる限り自分の「私性」を曝さないことが必要だ。
だってそうだろう。
もし、自分の「私的」な人格を剥き出しにしておいて、そこを立場上反撃が許されない人間から攻撃されたら、どれほど傷つくだろう。
だから、そういう可能性があるところでは、その場にふさわしい「仮面」、つまり諸君を傷つける可能性を持つ人間から見て、「無徴候的」であるような「顔」を向けることが最良の自己防衛なのだ。
そういう場では「絶対、素顔を見せない」「素に戻らない」ということが生存戦略上必須なのだ。
あらゆる場面を「素顔で通す」ということは、裸で街を歩いているのと同じことだ。
「気分がいい」こともたまにはあるかもしれないが、経験的には圧倒的に「気分が悪い」ことに遭遇する機会の方が多い。
「素で通す」人間というのは、「遮蔽壁のない潜水艦」と同じだ。
潜水艦は細かいユニットに分かれている。だから、ある箇所が浸水しても、ドアをロックしてしまえば、浸水はそのユニットで止まり、船は沈まない。
「素で通す」人間は、そのようなユニットに分かれていない潜水艦だ。
だから、教室でその「素顔」を教師に怒鳴られたときに、それを人格全体への否定として受け止める他ない。
これはきついよ。
教室にいるときに「仮面」をかぶっている人間は、教師からの攻撃をどれほど受けても、ダメージはその「仮面」にしか残らない。チャイムが鳴って、教室から一歩出てしまえば、そんな「仮面」はどこかにしまい込んでしまえばよい。そうすれば、来週のその時間まで、その不快な経験のことをさっぱり忘れることができる。
それが権力を持たない人間にできる最も効率的な「ディフェンス」だ。
「私語」というのは private talk である。
そこには「私」が露出している。
そこを攻撃されたら、傷は深い。
教壇から見ているとよく分かるが、「私語をする人間」は、いわば全員が「制服」を着ているべき場所に「パジャマ」で来た人間に等しい。みんなが仕出し弁当を食べているところで、「ママのつくったお弁当」を拡げているに等しい。
どうしてそのような無防備なことをするのか。
権力を持つ人間の前には決して「固有名」で立たない。
これは弱い立場にある人間の自己防衛の基本である。
というわけだから、諸君が、私からの権力的、抑圧的な攻撃からの被害を最小化するためには、「熱心に授業を聞いている恭順な学生」のふりをすることが、ベストの生存戦略なのである。
教室にいったん踏み込んだら、決して「素に戻らない」。
決して「私的」なものを教師の眼前に露出させない。
これが真にクレバーな学生の必然的選択なのである。

という長い説教を終えたころには、クラス全員が「目をきらきらさせて」私の話に聞き入っていた。
うむ、さすがに学習能力が高いな。
では、今日は主語人称代名詞についてお話しよう。
しーん。
あとの数十分、教室は、私の声と「こりこり」という鉛筆がノートをこする音しか聞こえなかった。