5月22日

2002-05-22 mercredi

瀋陽の総領事館への北朝鮮難民の駆け込み事件は、とりあえず第三国への出国という「人道的配慮」で手打ちになりそうな気配である。
それについて思うところを書く。
先月、中国から来ていた専任研究員R先生の歓送の宴で、前から気になっていた「中国の人は北朝鮮という国をどう思っているのか」ということを訊ねてみた。
R先生の答えは以下のとおり。

中国人のほとんどは将来的にアジアでのパートナーになるのは日本しかない、と考えています。
政治経済の先進度、社会の安定性、文化の成熟、どれをとってもアジアでは日本が群を抜いている。
朝鮮の人はちょっと困りますね。
あの人たちは怒るにしろ悲しむにしろ、感情的になりすぎる。
つきあい方がむずかしいです。
北朝鮮は、はっきり言って古めかしい独裁国家です。
中国の人間は、北朝鮮の政治体制を支持しているわけではありません。
それなのにどうして中国は北朝鮮との外交関係を重視するのか。
それは、中国と国境を接している国はほとんどぜんぶ潜在的には敵国である中で、北朝鮮だけがまぎれもなく友邦だからです。
ロシアも台湾もベトナムも日本も、中国と戦いました。いまは平和的関係ですが、永続する保証はありません。
将来を見越せば、中国人は日本との友好関係を育てたい。しかし、いま現在は安全保障上、北朝鮮との同盟関係を優先せざるをえないのです。
ですから、日本が中国のパートナーとして信頼性を高めるにつれて、北朝鮮と中国の同盟関係はその重要性を失って行くでしょう。そして、私たち中国人は総体としてそのような方向を望んでいるのです。

という、実に分かりやすい解説をしていただいた。
そのあとにこの事件があった。
私はすぐに中国の人たちの「ハムレット的ジレンマ」を考えた。

北朝鮮との同盟関係を考慮すれば、北朝鮮の破滅的な政治状況の「生き証人」である政治難民をすいすいと総領事館に逃げ込ませるわけにはゆかない。
日本との友好関係を考慮すれば、総領事館に許可なく踏み込むわけにはゆかない。

中国官憲の逡巡は深いものであったに違いない。それがTVで放映された「ゲート」近辺での「おれたち、敷地内に入ってませんからね、あ、ちょっとはいっちゃったけど、これは『勢い』ですから、見逃してね」という感じの警官の「自制」ぶりにうかがえる。
そのあと、どういう事情で館内にまで武装警官が入り込んで難民二名を捕縛したのか、それについてはわからない。
しかし、あの「入り口付近」での必死の「自制」ぶりからうかがうに、「建物内部」での警察活動については、中国側が「総領事館から同意が示された」という感触を得てから行動したと考えるのが自然である。
総領事館側に、国家主権の不可侵性について、どれほどのきびしい自覚があったかは分からない。しかし、現場の判断として、「敷地内で警察活動をすることを許可する」ことも、「可能な選択肢の一つ」ではありうると思う。
難民への人道的配慮が足りないことを国際社会で批判されても、中国との信頼関係を重視することによって中国に「貸しを作る」方が、長期的に見て、日本の国益にかなう、という政治判断は「あり」である。
しかし、この判断もやはり「ハムレット」的な二律背反のうちで、苦渋のうちに、瞬時に下されねばならない。
私が問題だと思うのは、この「現場での決断の切迫感」が日本の外交官には見られなかった、ということである。
この事件のあと「マニュアルを作れ」とか「外交の基本方針が決まっていないからだ」というような訳知りのコメントをする人がいた。
なにをゆーておるのか。
「マニュアル」や「基本方針」が整っていれば外交ができるなら、マクドのお姉ちゃんだって外交官になれる。
外交の現場というのは、「マニュアルにないことが起こり」、「基本方針そのものを揺るがすような判断が切迫する」場のことである。
中国の警官は「北朝鮮との同盟関係」と「日本との友好関係」の軽重を瞬間的に天秤にかけて、命がけで判断を下した。(もし、彼の判断があとで誤りであったとされたら、あの国のことだほんとうに「命がけ」である。)
それと同じ覚悟が日本の領事館員にあったか。
「日本の国家主権の護持」と「中国との友好関係」の軽重を瞬間的に判断して、その判断に外交官生命を賭ける覚悟の人間が、あの場にいたか。
「どうしたらよいか」について誰にでも納得できる判断基準がないときに、なお判断を下さなければならないことは私たちの身にしばしば起こる。
その場合の判断の重みを担保するのは、決断を下した人間が責任をとること、ただそれだけである。
判断が誤りであったことが事後的に明らかになったら、その責任を取って、粛然と制裁を受ける可能性を粛々とわが身に引き受けることのできる人間だけが、「マニュアルがない」現場で判断を下すことができる。
責任をとる気がない人間は、決断できない。
日本社会は、責任を取る気がない人間、決断できない人間を長期にわたって構造的に生産してきた。
現場の判断で、治外法権の総領事館敷地内に踏み込んだ中国人警官と、その警官の帽子を拾っておずおずと差し出す日本人外交官。ここに前景化したのは、中国と日本の「外交関係」ではない。それぞれの国の「公務員」の覚悟の違いである。
中国が侮ったのは、日本の外交政策や国家主権ではない。
それを運用する現場の人間の「無責任」と「覚悟の欠如」である。
それが政府中枢から末端まで貫徹していることをこれほどみごとに表象した図像を私はこれまで見たことがない。