5月17日

2002-05-17 vendredi

父が死んだあと、「お哀しみでしょう」ということばをいろいろな方にかけていただくが、あまり哀しくない。
父の死は「悔やまれる」けれど、「哀しく」はない。
私は父と仲良しだった。
でもたぶんその関係は通常「仲の良い親子」ということばが使われるときに人々がイメージするものとはかなり違う。
私と父のあいだには「愛憎こもごも」というような深い感情的な絡み合いがない。
もう、まるで、みごとなほどに、ない。
子どものころ、私は父を尊敬していた。
しかし、高校生のころになると、それまでするすると耳に入ってきた父のことばがうまく「のみこめなく」なってきた。
一方、私は新しいことばを手に入れ、それを使って語り始めたが、そのことばは父には届いていないようであった。
ふつうは、そこから「敬意と侮蔑、愛着と憎悪がないまぜになった」どろどろした親子関係が始まるのであるが、私はそういうのが心底苦手なので、「あれ? 何だかうまくコミュニケーションができないなあ・・・」と感じるとほとんど同時に、家を出てしまった。
だから父の目からは、「タツルは少し前までにこにこと食卓で談笑していたのに、どうもここしばらく黙り込んでいると思っていたが・・・家出ちゃったの? いきなり?」というふうに見えていたと思う。
最初の家出は半年ほどで終わり、尾羽打ち枯らして家に戻ってからの一年は、恥ずかしくて家の片隅に息を殺して逼塞していたので、ほとんど父と会話することもなかった。父も別に「ほらみたことか」というような意地悪なことを言わなかった。
そして、大学に合格すると同時に家を出て、(まだ入学手続きもしていない三月中に)駒場寮に不法滞在して、そのまま家には戻らなかった。
ずいぶん薄情な息子だ、と思う人もいるだろうが、私はこれでよかったのだと思う。
だって、そのせいで「内田家」についての私の記憶は、愉快なものしか残っていないからである。
不愉快な親子関係が始まりそうな予兆がしたと同時に私は「内田家」からオサラバしてしまった。だから、家の中で親子が怒鳴り合うとか、ちゃぶ台がひっくり返るとか、無言の食卓が何ヶ月も続く、とか、そういうTVドラマ的な出来事をひとつも「経験せずに済んだ」。
その一方で、親たちは、私の暴力的でうわずった政治運動や、自堕落なナイトライフや、ノイジーな音楽趣味や、傍若無人な悪友たちを「見ずに済んだ」。
「知らぬが仏」とはこのことである。
親子兄弟が仲良く暮らすためにだいじなことは、ぴったりと寄り添うことではない。
お互いが何ものであり、どんなことを考え、どんな生活をしているのかをあまり知らず、知りたがらず、ときどき会ってにこやかにほほえみ交わし、「じゃ、またね」と手を振って別れる・・・そういうのが、結局いちばんよいのではないか、と私は思う。
親しすぎる家族では、家族ひとりひとりが、他の家族の愛情や信頼や期待によって、深く逃れ難く繋縛される。
家族のみんなの期待に応えようとする役割演技と、自由を求める気持ちのあいだのコンフリクトが、家族のひとりひとりの精神を痛めつける。
家族の期待を裏切ったり、家族の利益に反する行動をとる個人は、それ以後まともに社会生活を営むことさえ危うくなるほどに感情と利害が絡み合った家族関係。
私はそういうものが嫌いである。
ただ、私が求めているのは、フェミニストが言うような、「あたらしい家庭」とは違う。
制度上どれほど互いに無責任であろうと、成員たちが感情と利害で抜き差しならないほどに絡み合っている集団は見苦しい。
私は「同居人」とか「パートナー」とかいうことばを聞くと全身に鳥肌が立つが、それはそういうことを言っている人間たちが、制度的な支えの弱さをカバーするために、濃密なイデオロギー的・感情的しがらみで相互に繋縛しあっている姿を見苦しく思うからである。
家が制度的な単なる「入れ物」であるかぎり、中にいる人間同士のあいだには距離があり、それぞれに自由がある。
家という「枠」がなくなって、個人と個人が待ったなしで向き合っており、その結びつきの必然性が間断なく言語的に確証され更新されなければならないような「同居人」たち。
私はそのようなものを少しも素晴らしいと思わない。
制度的には互いに有責なのだが、その制度的有責性が大枠を保証しているせいで、濃密な人間関係を取り結ぶ必要がなく、成員たちが適当にふらふらしていても大丈夫な家族。
家族の一人が何年も家をあけていて、ひょっこり帰ってきて「ただいま」と言っても、「お帰り」と何事もなかったかのように迎えてくれる家族。
私はそういう家族が好きだ。
内田家はそういう意味で、私にとってほとんど理想的な家だった。