通夜、告別式とあわただしい二日間が終わった。
さすがに母、兄、私と三人とも疲れて、精進落しの会が終わり、家に戻って、しばらく昼寝。
よろよろと起き出して、遺骨と遺影の祭壇だけ整え、食事にでかけ、苦労をねぎらい合う。
会葬者の名簿を整理しながら三人で父の思い出話をしているうちに夜が更ける。
12日の午後に父が息を引き取ってから、二日あまり、時間的にも余裕のない中、とにかく父の遺志にある程度かなうようなかたちで、簡素で気持ちのこもった葬儀を済ませることができた。
父は骨の髄まで近代人であったので、仏式の葬式が大嫌いであった。
だから「戒名をつけるな。坊主を呼ぶな。線香を焚くな。お経を読むな」とさんざんわがままなことを以前から言っていた。
ところが、不思議なことに、そういう父本人は仏式であれ神道であれ、葬儀の「仕切り」を得意としており、親戚の葬儀での父の差配の手際よさと、そのよどみなくかつ感動的な「遺族を代表してのスピーチ」を子どものころの私はほれぼれとうち眺めたものである。
「父なら『父の葬儀』を間然するところのない手際で切り盛りするであろうが・・・」とせんないことを考えた。
ともあれ、ある程度は世間のしきたりに妥協していただかなければことも進まず、ご宗旨の曹洞宗のお坊さんには来ていただいたが、戒名はつけず、式の前後は父ご指定のバッハの無伴奏チェロ組曲を流した。
最初から最後まで、きっちり葬儀を仕切ってくれた兄の親友でビジネスパートナーの星野茂さんと、フィード株式会社の社員のみなさまにはお礼の申し上げようもない。
星野さんは兄の親友というだけでなく、私もまた小中高とお世話になった先輩であり、父にとっても小学生のときからのお気に入りでもある。ほんとうにお世話になった。ありがとうございました。
ご多用中のなか会葬してくださったウチダ関係のみなさまにも心からお礼申し上げたい。
お忙しい中遠路お越し頂いた多田宏先生。合気道自由が丘道場の道友諸兄。東京大学蛍雪友の会の諸君。日比谷高校の懐かしい級友たち。そして通夜、告別式と忙しいなか弔問に来てくれた平川克美君(金曜日は神戸で、月曜日は東京で、ずいぶん種類の違う集まりで飲み交わしたことになる)旧友松下正己、石川茂樹の両君。遠く芦屋から来てくれた高橋奈王子さん。弔電をお寄せ下さった原田学長、松澤院長、上野学科長、神戸女学院の教職員学生院生のみなさん。合気道会のみなさん。一人一人名前をあげていたらきりがないけれど、みなさんほんとうにありがとう。
近親者をなくすというのは私にとってはじめての経験だけれど、ふしぎに喪失感がない。
ひとつには父が九十歳まで長生きしてくれて、父に対して息子として「あれもしたいこれもしたい」と思っていたことがだいたい果たせたからである。
「墓にふとんはきせられず」というけれど、生きているうちにまめに「ふとん」をかけさせていただいたので、思い残すことがあまりない。
数年前からは四人で毎年旅行に行った。
箱根、城之崎、有馬、四国。去年のいまごろは父の故郷の鶴岡を訪れ、菩提寺宗傳寺の内田家累代のお墓に詣でて、父が大正のはじめに子ども時代をすごした鼠ヶ関の海べりも父と並んで歩いた。
この正月に甥の裕太もまじえて湯本に行ったのが最後になったけれど、あのときも愉快な旅行だった。
もう一度みんなで旅行したかったし、卒寿の祝いもしたかったけれど、欲をいえばきりがない。
最後の夜は一夜をそばで過ごすことができたし、死に目にもなんとか間に合った。
最近の著書も読んでもらったし、父が最後に力をふりしぼって眼鏡をかけて読んでくれたのは、木曜の朝日新聞の「e-メール時評」だったと母から聞いた。生涯最後に読んで気持ちがかたづく、というような内容のものではまるでなかったけれど、「せがれも、まあなんとか世間なみにがんばっとるようだ」というくらいのことはご納得頂けただろう。
父は私にとって、いちばん辛口の批評家だった。
これから書いたものを父に読んでもらってその感想を畏まって拝聴するという機会がなくなってしまった。残念だけれど、しかたがない。
親が長生きしてくれるというのが子どもにとってどれほどありがたいことか。正月にも同じことを書いたけれど、ほんとうに身にしみた。
その点がなによりも、ありがたい父であった。
喪失感がないもう一つの理由は、父の死が私たち家族の「私事」ではなく、ある種の公共性をもつできごとだった、ということにある。
もしこの死を家族三人だけで受け止めなければならないとしたら、私たちは、父の存在したことの意味とその記憶を担保する全責任を負うことになる。
それは重たい仕事だ。
なぜなら、家族といえども父のしてきたこと、考えたこと、感じたことのすべてを知っているわけではないからだ。
その私たちの知らない、私たちがアクセスする方途をもたない父の「アナザーサイド」については、それは父の死とともに永遠に失われてしまう。
しかし父の親友・矢野澄夫さんはじめ、多くの会葬者の方々、多くの知友のかたがたの心のこもったご挨拶を聞いているうちに、この方たちひとりひとりが全員、私たちの知らない父の記憶を有していることに気づいた。
考えてみれば当たり前のことだ。
父にかかわりのあったすべての人々は、父について、それぞれ「かけがえのない記憶」を有しており、それぞれ固有の仕方で父の死を悼んでいる。
父の生涯は多くの人々に分有されて記憶に刻み込まれている。
その無数の記憶の断片の総和としての「内田卓爾」はこれからも存在し続ける。
だから私たち家族は、「家族の記憶」と、さらには「私と父」のインティメイトな思い出だけをひとりしずかに抱きしめていればよいわけである。
父はこんな人だったんですと私がことさらに言挙げする必要がないということ、自分ひとりで父と向き合っているだけでよいのだということを、私は深い哀しみの眼で父の遺影をみつめる「私の知らないひとたち」から教えていただいた。
私は彼らの哀しみがどういう質のものかを知らない。彼らが父とどんなことを話し、どんなことで笑い、どんな愉快な時間を共有したのか、知らない。
その私の知らない、想像もできない無数の個別的な経験をとおして、その人々は父の存在を私たちと分かち合っているということを私は葬儀の席で実感し、救われた思いがした。
分骨した小さな骨壺と宗傳寺の境内で笑っている父の遺影がいま御影の家に置いてある。
明日からは家に帰ってきたときに「ただいま」という相手がいる。
いっしょに暮らす家族が一人ふえたような気がする。
(2002-05-14 00:00)