5月11日

2002-05-11 samedi

そういう印象がするというだけなので、統計的に根拠があるかどうか分からないけど、20代後半から30代なかばにかけて、精神的に不安定な若い女性がふえている。
不眠や鬱病は軽症で、妄想や幻聴など専門的な治療が必要な人間も少なくない。
あるいは私の周囲の、中産階級の家庭で育った高学歴の女性にとくにその傾向が強いのかもしれない。
発症のきっかけはさまざまだが、全員の状況に伏流しているストレスの形態は共通している。
それは自我理想と、現実の自我のあいだの痛ましい乖離である。
「こうありたい」ロールモデルと、「現にある自分」のあいだにはいつでも落差がある。その疎隔のストレスを推力にして、人間は成長する。
だから、ロールモデルと現実の自分のあいだに「ずれ」があることは当然のことであって、別に困ることではない。
むしろ、理想我と現実の自我がばっちり一致している人間の方が(そんな人間なんて、たぶんいないと思うけど)よほど始末に負えないだろう。
理想と現実の落差それ自体は教育的・生産的なものである。
私たちはその落差を手がかりにして、自分が「何をできないか」「何を知らないか」「どこにいないか」「誰でないのか」について欠性的なしかたでデータを詰めて行く。
それを私は「マッピング」=地図上における自分の位置を特定すること、誰にも代替しえない、かけがえのない自分の位置を知ることだと考えている。
ロールモデルからの「隔たり」、理想への「いたらなさ」、目的への「手の届かなさ」を知ること、それこそが、自分が「何ものである」かを知るための、いちばん確実な自己規定である。なぜなら、私たちは全員がそれぞれ固有の仕方で「理想を逸している」からである。ゴールに手が届かない仕方、的をはずす仕方、その「失敗の経験」を通じて、私たちはおのれのアイデンティティを確証する。
理想を持つことは教育的である、というのはそのような意味である。
高い理想を持つものは、低い理想を持つものより、失敗する確率が高い。だからこそ高い理想をもつことが称揚されるのである。
というのは、このゲームでは「たくさん失敗したもののほうが、自分についてより多くのデータを採集できるから、結果的には自分のアイデンティティについてより確信を深めることができる」からである。
より多く失敗するものがより多くをゲットするゲーム。
それが「成長」というゲームである。
だから成長ゲームは「サクセス・ゲーム」ではない。
現実をより豊かにするために、失敗をより生産的なものにするために、挫折から引き出しうるメリットを最大化するために、目標は設定される。
だから、このゲームで「サクセス」というような概念の入り込む余地はない。
成長ゲームで「サクセス」をねらうというのは、将棋で「ツモ上がりをねらう」とか、サッカーで「三振をねらう」というのと同じく無意味なことばづかいである。
しかるに、最近の若い女性のうち、とくに向上心の強い人たちを見ていると、どうやらこの「成長ゲーム」を「サクセス・ゲーム」と勘違いしているように思われるのである。
経営学修士号とか外国語とかコンピュータ・リテラシーとかスレンダーなボディとか見栄えのよいボーイフレンドとか「ワインにはちょっとうるさいのよ」とか、そういうスキルや情報をごりごり「収集」してゆくと、人間的成長と社会的サクセスがめでたくゲットできる、というふうな手ひどい勘違いをしているように思われる。
悪いけど、そんなスキルや情報は「ゴミ」である。
だって、そんな「もの」はいくら収集しても彼女が「ほんとうはなにものであるか」について何も教えてくれないからだ。彼女のアイデンティティを少しも基礎づけないし、彼女を少しも成長させないし、彼女を少しも倫理的にしないからだ。
成長するというのは、一言で言えば、自分の「かけがえのなさ」を知るということである。
「私は、誰によっても代替されないような仕方でユニークである」という覚知を「エートス」と言う。それはギリシャ語で「個性」という意味だ。
おのれの「エートス」をどこまでも掘り下げて行くと、「私には私の使命があり、あなたにはあなたの使命があり、60億の人間は60億の異なる使命を託されて生まれてきた」という人間観に突き当たる。
だから、おのれのユニークさに対する自覚と他者の未知性に対する敬意とを同時に思い知ること、それを、「エートス的」、つまり「倫理的」ethiqueと呼ぶのである。
いまの若い女性の理想自我の設定のしかたはいちじるしく没個性的であるが、それはアイデンティティの確立とサクセスを同一視しているからである。
サクセスというのは、簡単に言えば

「他人が持っているもので/自分も持つ資格があると思い込んでいるものを所有すること」「他人がそうであるもので/自分もそうなる資格があると思い込んでいるものになること」

であって、端的に言えばアイデンティティを掘り崩し、「誰でもない人間」になることである。
そんなことのために汗水たらしていれば、いずれ「私は何でここにいるのだろう」「私はいったい何のためにこんなことをしているのだろう」という disorientation に至るのは当たり前である。
だって、マッピングすること=自分の位置を知り、自分の歩む道を知るとは、できるだけ多くの失敗を繰り返し、「自分にしかできない失敗の仕方」を通じて自分が誰かを知ることなんだから。
理想やロールモデルというのは「適切な仕方で失敗する」ためにある。
だから「オレはオレだから、あくまでオレらしくやりたいわけよ」というように自己完結して、外部に理想をもつことを拒否する若者も、できあいの「サクセス・モデル」に似せよう必死に努力する若者も、いずれも「失敗することを回避する」がゆえに、遠からず必ず道に迷うことになる。
若い女性に心の病が多いと冒頭に書いたけれど、それは彼女たちが強迫的に失敗を恐れ、失敗のリスクを取ることをかたくなに拒否していることに原因があるのではないかと私は思う。

というようなことを平川くんの講演にインスパイアされてこりこりシグマリオンに打ち込みつつ新幹線にのって実家に戻る。
父の容態がかなり重篤であるという連絡を受けたからである。
病室へ行ってみると、容態は予想以上に悪化しており、もう呼吸するのも苦しそうである。
夜もなかなか眠れないということで、点滴に睡眠薬を混入してもらうことにする。
意識が混濁して、そのまま戻らない可能性もあるということなので、今生の最期となるかもしれない私の挨拶を受けるべく、父は苦痛に耐えて私の到着を待っていて、私が病室につくと、両手をあげて迎えてくれた。
「タツルが来れば楽になれる」ということで、昨日からずっと「タツルはまだか」と母に繰り返し訊ねていたそうである。
長く待たせてしまって申し訳ない。
点滴に睡眠薬を入れると、すぐに眠りに落ちた。
息づかいは早いが、呼吸は規則的で、とりあえずほっとする。
一昨日、昨日と兄が病室に泊まり込んでくれたので、今日から私が交代である。
もうすっかりやせ細って、抱きかかえると驚くほど軽い。
かつて私たち兄弟をかるがると抱き上げた長身筋肉質の父親のおもかげはもうない。
このまま痛み苦しみを味わうことなく、生涯最後のときを安らかな眠りのうちに閉じてもらうことだけが私たちの願いである。