讀賣新聞の学芸の鵜飼さんという記者のインタビューを受ける。
再来週の讀賣の読書欄に「著者インタビュー」として『「おじさん」的思考』が紹介していただけるのである。
これで朝日、讀賣から取材を受けたことになる。あとは毎日から来ると「三大新聞制覇」グランドスラムだ。
毎日の学芸には日比谷高校雑誌部の先輩のY川さんがいるはずで、先輩から「おい、ウチダ、話聞いてやっからら、東京の毎日の学芸まで顔出せや」と電話一本いただければ、「はい!」と直立してうかがうのであるが、(ウチダは長幼の序については、たいへん律儀な人間である)お電話がない。(待ってまーす)
たいへん愉快な取材で、1時間半ほどわいわいしゃべる。
私はさきに宣言した通り、「期間限定物書き」であって、2003年3月をもってメディアへの出稿を終え、あとは「誰にも相手にされない、静かな学究生活」に戻る予定である。
この半年ほど、注文があるごとに「ほいほい」と書いていたけれど、やはり私が似つかわしいのは、「ホームページ日記」と紀要論文と国文社の翻訳であって、メジャーなメディアはなじまない。
今年度いっぱいで注文原稿は書かないと決めたら、気分がすっきりした。
どうせ、こっちが「書きたい」と言っても、先方が「もう、いいです」ということになるだろうしね。(だって、みんな「おんなじ話」なんだから)
私が表現者としてのロールモデルにしているのは大瀧詠一である。
大瀧詠一は84年の『イーチタイム』を最後にアルバムを発表していない。
でも大瀧の『日本ポップス伝』と山下達郎との『新春放談』は他のどんなミュージシャンのレギュラーな活動よりも私の音楽生活を豊かにしてくれている。
「音楽って、もっと自由なもんじゃないの? 毎年アルバムつくって、ツァーやって、っていうのだけが音楽じゃないよ」と大瀧は語っている。
畏友石川茂樹くんが毎年プレゼントしてくれる『新春放談』のテープを私は十年以上前から学校への行き帰りの車の中でほとんど全文を暗記するほどに聴いている。
今日のインタビューで、改めて私は自分がどれくらい大瀧詠一から影響されてきたのか思い知った。
表現することについて、私が確信を込めて語っていることのほとんど大瀧のことばそのままである。
私は自分が「何かを知りたい」からものを書く。
だって、書かないと自分が何を考えているか、何を知りたいのかさえ分からないからだ。
でもそれは書いた段階で、私が「自分が書いたものを読んだ」段階で、その使命を終えている。
私は自分が書いたものを読むのが好きだ。
それを「商品」にするかどうか、売れるかどうかということは、私にとっては副次的なことにすぎない。
たまたま私の「兄ちゃん」とか平川くんとか江さんとか、それを「読みたい」と言ってくれる人がいるから、活字にしてもいいかな、と思うだけで、活字にしなくても読めのなら、別に活字にする必要もないのだ。
大瀧の言った中で、一番印象的だったのは、「音楽は消えてゆくからいいんだ」ということばだ。
『新春放談』でスタジオでのテイクを流したあと大瀧は「これをCDにして出せとかいうオッファーは一切お断り。たまたまラジオ放送を聞き逃したから、もう一度というようなことは言ってもらっても取り合わない。それは『ご縁がなかった』ということなんだよ」ときっぱり語っていたけれど、私はそれはほんとうだと思う。
出会うべきものには、出会うべきときに出会うし、出会わなければそれは『ご縁がなかった』ということだ。
私はたまたま2001年から2002年にかけて、読者に出会うチャンスに恵まれた。
それはすごくありがたいことだから私はほんとうに感謝している。
でも、その「チャンス」が永続することを願うのはむなしいことだし、たぶん、ものを書くことの本旨に悖ることだと私は思う。
(2002-05-07 00:00)