5月5日

2002-05-05 dimanche

世間は連休であるが、私は終日机にむかってごりごり原稿を書いている。
とうとう一日誰とも話をしなかった。
こういうことがよくある。
しかし、一日中、問いかけと答えの運動のなかで次々と本を読んでいるので、頭の中ではいろいろなひととのかわした会話がまだわんわん残響している。
昨日のお話相手はショシャーナ・フェルマン、レヴィナス、ハイデガー、ヘーゲル、コジェーヴ。
なかなか豪華な対談相手である。
なんで、こんなものを読んでいるかというと、女性学のノートのために、フェルマンの『女が読むとき、女が書くとき』の論理構成を分析しているからである。(学生さんに聞かせても、ちょっと分かって貰えそうもない話題だから、もうノート作りじゃなくて、たんに自分の趣味でやってるんだけど)
フェルマンがラカンの「語り」論と「主体性」論を下敷きにしてそのフェミニズム言語論を構築していることは、ご本人も認めている。
しかるに、ラカンのその二つの論件はコジェーヴ経由で彼が学んだヘーゲルの「自己意識」論を下敷きにしていることは、精神分析史の本には必ず書いてある。
そこで、「あ、そうか」と私は膝を打った。
ヘーゲル-コジェーヴ-ラカン-フェルマンの線が繋がったのである。
だから、フェミニズム言語論の最先端的知見であるショシャーナ・フェルマンは、よくよく読むと「ほとんどヘーゲル」なのである。
例えば次の文章。

「彼は自己を人間であると思い、そうであるとの『主観的な確信』をもっている、と言うことができる。しかしながら、彼の確信はいまだ知とはなっていない。彼が自己に帰属させる価値は錯誤であるかもしれず、彼が作り出す自己自身の観念は偽りのもの、或いは妄想かも知れない。この観念が真理となるためには、この観念が客観的実在性を、すなわち単に己れ自身に対してだけでなく、己れ以外の他のもろもろの実在に対しても価値をもち、そして現存在する存在を開示しなければならない。したがって、この場合、人間が実際に、そして真実に『人間』であるためには、そしてまた自己をそのように知るためには、彼が作り出す自己自身の観念を自己以外の人間にも認めさせねばならない。すなわち、彼は自己を他者に承認させなければならない。(...) 彼は自己が承認されていない世界を、この承認が働く世界へと変貌せしめねばならない。このように人間的な企図に対し敵対的な世界をこの企図に適合する世界へと変貌せしめること『行動』とか、『行為』と呼ばれるものである。」

これはコジェーヴの『ヘーゲル読解入門』の一節であるが、この引用の中の「人間」を「女性」に、「彼」を「彼女」に置き換えると、あら不思議、これはそのまんまフェルマンのジェンダー論の結論なのである。
どうもフェルマンは凡百のフェミニストに比べて、読んだときに深みがあるというか、スケールが大きい論客だなといつも感心していたのだが、それは彼女が(おそらくはそれとしらずに)ヘーゲリアンだったからなのだ。
聞いてびっくりである。
しかし、それにしても「男性中心主義的言語」をラディカルに批判し、「男性的精神」をもって思考し、記述することからの決定的テイクオフをなしとげたはずの当のフェミニストの言説がまるごとヘーゲルのスキームをそのまま借用しているというのは、ちょっとまずいんじゃないだろうか。
だって、ヘーゲルって、「男性的精神」どころかヨーロッパ近代を差し貫くファロサントリック形而上学の「宗家・家元」であり、「つねに男性形で書かれてきた」主語の占有者であり、「あらゆる主語=主体とあらゆる言説の守護者たる神の文法上の性」をつねに独占してきた「男性的-父親的」精神の権化なんだから。