5月4日

2002-05-04 samedi

今朝の朝日新聞の「私の視点」に、神奈川大学教授の尹健次という人が「戦争への反省こそ日本の道」という一文を寄せている。
おそらくある意味では朝日新聞的には「模範解答」な有事法制論なのだろうが、私は一読して「またか・・・」とため息をついた。
そこに展開されている議論は、一般読者には定型的なもの、「聞き慣れた」ものに読めるかも知れない。
しかし、「こういう議論に慣れてしまうのは、ちょっと、まずいぞ」と私は思う。
それについて書く。

文章は次のように始まる。

「『有事法制』というのは『戦争法』である。つまり『有事』とは戦争または戦争を予想する状態であり、日本はいつでも戦争を辞さないという明確な意思表示である。
これは日本の植民地の所産である在日朝鮮人の一人としては、到底受け入れられるものではない。」

この文章には論理的な段差がある。私はそれにいきなりつまずいてしまう。
ここには二つの文がある。
前段は有事法制の定義という事実認知であり、後段は在日朝鮮人としての政治的態度を語った決意表明である。
有事法制についての定義はこれでよいと私も思うし、尹さんがいかなる政治的態度をとろうとも、それは彼の神聖不可侵の政治的自由だ。
しかし、それでも、この前段と後段のあいだには論理的なつながりがないということは指摘しておかないといけない。
二つの文のあいだには、論理的な「深淵」がある。
この深淵を飛び越すためには、何らかの論理的架橋が必要だ。
ありうる論理的架橋は次のようなものしかない。

(1)いかなる国であろうと、「戦争を辞さない国」であるという意思表示をすることは許れさない。
(2)私は植民地主義的な戦争の被害者であった朝鮮人であるから、とりわけ、そのような意思表示には反感を覚える。

これなら話が通じる。
しかし、ここで問題が起こる。
「戦争を辞さない国」であることを意思表示している国は世界中に200近くある。
そのすべてに対して尹さんが「到底受け入れられるものではない」と主張しているのであれば、いささか理想主義的な議論ではあると思うが話の筋はとおっている。
しかし、尹さんが反対しているのは、とりあえず日本についてだけである。
私も尹さんと同じく、日本が「戦争を辞さない国」であるというような意思表示をすることに有害であると思っているが、それは「他の国には許されるそのような意思表示を、日本だけはする権利がない」というふうに考えているからではない。
どの国家のも意思表示する「自然権」はひとしく賦与されているが、それは日本国憲法の理念に反するし、現実の国際関係に照らしても有害無益だから、あえて「戦争を辞す国」であるべきだ、と思っているからである。
日本は「交戦権」をみずから「放棄」したのであって、誰かに「禁止」されたわけではない。(実質的にはGHQの主導で「禁止」されたのかもしれないが、当時の日本国民の過半が「戦争なんて二度とまっぴら。軍人がいばるのももうごめん」と思っていたことは間違いない。)
しかし尹さんの立場は私とは微妙に違う。
彼はその名乗りからみて、朝鮮民主主義人民共和国に帰属感を有している。
北朝鮮の現在の指導者は、知られているように、「戦争を辞さない国であることを意思表示」し、しばしば「戦争カード」をちらつかせることよってきわどい国際外交を展開していることで知られた人物である。
尹さんは北朝鮮が「戦争を辞さない国」であるという「明確な意思表示」をしていることについてはどう考えているのだろう。
もし北朝鮮をも含めて、そのような危険な外交ゲームに踏み込むあらゆる国家の行動に警鐘をならすのが尹さんの意図なら、「在日朝鮮人の一人として」という名乗りは不要のものだろう。むしろ論拠を危うくするものだろう。
しかし、あえてそのような名乗りをした上で彼が日本の有事法制を批判したということの意味は、論理的には一つしかない。

それは、「戦争を辞さない国」であるという意思表示を「してはいけない国」と「してよい国」があるということである。
日本はそのような意思表示を「してはいけない国」であるが、北朝鮮は「してもよい国」である。尹さんはそう考えている。

そういう考え方は「あり」だとは思う。
すべての国家はひとしく同一の倫理コードに従って行動すべきだ、という考え方があり、すべての国家はそれぞれの事情で倫理コードが違ってもよいという考え方もある。
私は、尹さんと同じく、すべての国家が一律おなじ倫理コードに従うことはない、と考えている。ただ、そのねらいは彼とはおそらく違う。
私はすべての国は自国には他国より「きつい」倫理コードを求めるべきであり、他国に自国より「きつい」倫理コードを求めることは誰にも許されないという考え方をしている。
過去に帝国主義的・植民地主義的な侵略を受けた経験のある「被害国」は、「加害国」に対して、倫理的な「貸し」があるので、「加害国」には許されない種類の政治的行動(たとえば、独裁やテロや暴力)を自分には許すことができるという考え方がある。
これは「倫理の相称性」-「同罪刑法」の原理-をふまえた発想法であり、人類の歴史と同じだけ古い。
1960年代の民族解放闘争においては、そのロジックに世界中の「左翼知識人」が唱和した。いまなお、そのロジックに支えられた「大義」のもとに、世界各地で毎日多くのテロが行われている。
かりに尹さんが、日本には許されない国家的行動が北朝鮮には許されると考えているとしても、それは「被害国」のテロリストが「加害国」市民を爆殺するのは「恐怖の相称性」を回復しているにすぎないと主張するのと同じく、「同罪刑法」の原理をふまえたものであり、「よくある」考え方、むしろ世界の大勢に従う考え方である。
私自身は「同罪刑法」的応酬をどれほど徹底しても、決してそれによって世界に最終的な正義や永遠の平和がもたらされることはないと考えている。
だから、この同罪刑法的な思考から導かれる彼の結論に私は同意することができない。
尹さんのそのあとの議論は標準的な経路をたどって結論に至る。

「日本は戦前のアジア侵略・植民地支配の歴史を反省し、謝罪・補償を誠実におこなうどころか、逆に過去の戦争を美化し、歴史を歪曲する特異な国である。」
「小泉人気の振幅の激しさに見られるように、日本の大衆意識はファシズム的要素を十分にもっている。それを利用した日米軍事同盟の強化、そして戦争への途ではなく、アジア諸国の人びとと手を携えて歩んでいくのが、日本が選択すべき方向ではないのか。」

この主張に私は賛成である。
しかし、そこから導かれる次の結論には同意できない。

「日本のマスコミがあおっている朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本人拉致疑惑や不審船事件も、その解決の方策はまず日本が過去の植民地支配を反省し、国交を樹立することである。その過程で未解決の懸案事項は解きほぐされ、また北朝鮮の閉鎖的・硬直的体質も漸次改善さえれてゆくのが期待される。」

尹さんはかりに日本人拉致疑惑や不審船事件のような「未解決の懸案事項」が日朝間にあったとしても、それを解決するためには、北朝鮮が何らかのアクションを起こすより先に「まず」日本が過去の植民地支配を反省することから始める他ない、と言う。
これは言い換えると、仮に「悪いこと」を北朝鮮がしていたとしても、それは日本が過去に犯した「もっと悪いこと」の必然的な代償なのであり、日本の罪はこの程度の「悪いこと」でトレードオフできるようなものではない。だから「まず」日本から反省しなければならないということである。
これをして私は同罪刑法的思考と呼ぶのである。
私は論脈上、いま尹さんから「加害者」として「償い」を求められている立場であるので、いまから危険なダブル・スタンダードを使って語ることになる。
私は「当事者」という立場においては、尹さんのこの「応報」の主張に理ありとせねばならない。
しかし、もし「第三者」の立場から同じ問題を観ることを想像的に許されるなら、尹さんの主張は「間違っている」と言うほかない。
おそらく、「当事者のくせに、第三者的立場から批評するな」という非難を私に加える人が多くいるだろう。
しかし、心を落ち着けて考えて欲しい。
日朝問題のような、絡みつくようなルサンチマンと恩讐と利害の当事者たちが第三者的な立場から自分たちを見ること-自分たちを含む風景ごと自分たちを想像的に俯瞰すること、歴史の滔々たる流れのうちに呑み込まれてゆく豆粒のような自分たちを冷たい目でみおろす視座へ想像的に脱自すること-が、歴史的文脈において判断をあやまらないためにもっとも確実な手続きではないのだろうか。
人間はそのような脱自的想像をなしうる力を「知性」と呼んでいたのではないだろうか。
この「ダブル・スタンダード」はしかし本質的にはひとつの水準に帰着する。
よく考えて見れば分かることだが、私が「日本人」であり、「かつての植民地主義的侵略の加害者」であると「みなしている」のは、私が知的操作を経て獲得した自己意識である。
無反省的、非知性的な状態にとどまる限り、私が生まれる前に、私ではない人間が犯した罪過の責任を私が負わなければならないという発想は出てこない。
私がいまの等身大の自分を想像的に離脱して、「日本国民」という歴史的にも地理的にも、はるかに私一身を超える想像的な共同体の成員としての自己意識を獲得することによってはじめて、私は「朝鮮という想像的な共同体」の成員である尹さんを「被害者」とみなし、おのれを「加害者」としてみなすことのできる論理的準位に達するのである。
ならば、そこからさらに想像の翼を拡げれば、「人間たち」というさらに包括的な共同体の成員としての自己意識も獲得できるはずだと私は思う。
その論理的準位において、同じ問題を眺めたら、違う相が見えてくるのではないか、と私は言っているのである。
繰り返し言うが、私は国民国家という幻想の準位では、「加害者」は「被害者」に償いをしなければならないと思っている。
それでもやはり、「国民」という意識は、脱自的想像力によって知的に獲得された「自己意識」に他ならないのであり、パセティックではない語法で、この自己意識の成り立ちについて語ることが、私たちの優先的な課題であるように私には思われるのである。