5月2日

2002-05-02 jeudi

父の病室で終日看病。
父は微熱を出してうつらうつらしている。
横に座ってシグマリオンでばしばしと「女性学」のノートを作る。
エレーヌ・シクスーやリュス・イリガライが何を言いたいのか、それが私には依然としてよく分からない。

「いったい、彼女たちは、何を力んでいるんだろう? 彼女たちが必死に紡ぎ出しているこれらの、のたうつような、カオティックなことばは、いったい誰に聞き届けてもらうためのことばなのだろう?」

たとえば、つぎのようなフレーズは、誰あてなのか?

「女性が女性に向けたエクリチュールにおいて、そしてファロスの支配する言説の挑戦に応じることにおいて沈黙以外のどこかで、すなわち象徴界内に象徴界によって女性のために取り置かれた場所以外のどこかで女性を肯定しうる女性的なテクストは男性的テクストとは異なる。」(シクスー)

少なくともバルトとデリダとラカンの理説に通暁していないと、(つまり「エクリチュール」と「ファロス」と「象徴界」の意味が分かっていないと)このフレーズは理解できない。(通暁していたとしても理解できるかどうかは保証できないけれど)
しかし、愚考するに、バルトとデリダとラカンに「すでに通暁」している読者であるなら、言語論/ジェンダー論について、いまさらシクスーから教えてもらわなければならないような知見があるとは思われない。
一方、「ファロス」の意味も「象徴界」の意味もよく分からない読者にとって、このフレーズはいかなる理解をも絶した「呪文」である。
つまり、このフレーズは、それを理解できる読者にとっても、それを理解できない読者にとってもともに「無意味」なのである。
たぶん、「業界人」や「博士論文準備中の大学院生」とかに、「ストックフレーズ」の文例として読まれているのであろう。
私はこういう書き方をする人間は、マルクス主義者であれフェミニストであれラカニアンであれレヴィナス主義者であれ、むかしから信用しないことにしている。

「エクリチュール」というのは仮説である。「ファロス」というのは操作概念である。「象徴界」というのは「治療の方便」である。

それぞれの現場で、「使ってみたらうまくいった」という経験的事例があったからこそ流布しているが、もとは「ただの思いつき」であり、言い出した全員が「いずれもっと実効的な概念がでてくれば、誰も使わなくなるけど、ま、とりあえずね」という節度をわきまえていた(はずの)術語である。
そういう現場での治験の裏付けがあって、条件が整ってはじめて使える操作概念を、「りんご」とか「たぬき」とかいうようなことばと同じように、コンテクストのちがうところで、普通名詞として使用するというのは、ことばを使う人間にとってきわめて危険なことなのである。
だって、そうでしょ?
「象徴界」だって、「ファロス」だって、見た人なんかいないんだから。
見た人がないことばでも、人を動かせるという点で、それは「八紘一宇」や「大東亜共栄圏」と同じ機能を果たしている。

「それって、ほんとは何のことなの?」

という「子どもの疑問」を決して許さないという点でも、「ファロス」と「八紘一宇」はよく似ている。
意味が分からないけれど、その「ことばづかい」を繰り返すと誰かに「ほめてもらえる」という点でもよく似ている。
ストックフレーズを「まるごと」記憶して、それを疑いもせずに繰り返すとほめてもらえる場所というのに、私は成長過程で繰り返し出会った。
学校というのはもちろんそういう場所だし、学生運動も、商社相手のビジネスも、仏文業界も、そうだった。
「階級」の意味も「大衆」の意味も「資本」の意味も「貨幣」の意味も私は知らなかったが、別に「仕事」に不自由はなかった。
だからたぶんそれと同じく、「象徴界」の意味も「ファロス」の意味も、同業者の過半は知らずに使っているであろうと私は推察するのである。
ことばというものは、そういうふうに「ほんとうは・・・?」というラディカルな問いかけ抜きで流通するものである。
「ほんとうは・・・」という問いかけだって、ほとんどの場合は、辞書の中の単語の意味を辞書の別の単語に置き換える「循環参照」にしかたどりつかない。
ことばというのは、本質的にそういう「いかがわしい」ものだ。
しかし、「本質的にいかがわしくないことばづかい」というものをシクスーやイリガライが求めている、というのがほんとうなら、彼女たちがそういう「先例」を無批判に繰り返しては、話の筋が通るまい。
ことばのイデオロギー性や、制度性についての、本質的な批判がありうるとすれば、その批判は、これまで誰も語ったことがないほどに「無垢な」ことば、「ほんとうは、それって、どういう意味なの?」とどこまでも遡及的に問い続けて倦むことのない、「こどものことば」で語られるべきだろう。
だが、私は彼女たちのことばづかいのどこにも、「自分がいま用いているこの術語は、ほんとうは何を意味しているのだろうか?」という足元を揺るがすような自問を見出すことができない。
彼女たちはいかにも自信たっぷりに、「女性的エクリチュール」なるものについて語ってみせる。
私は、ことばに対する、このような「なめた」態度を「下品」だと感じる。
「下品」であることと「政治的に実効的」であることは別に矛盾しないから、彼女たちの政治的成功には期待がもてるのかもしれない。
だが、これほどまで「ことばの使い方」に鈍感な諸君から「ことばの使い方」について、何かすばらしい洞見を授けられるだろうと期待することはできない。
驚くべき事に、彼女たちの中心的論件は「ことばの正しい使い方」なのである。
おいおい、ほんとかよ。
どうしてそういうだいそれたことが「できる」と思いこむことができたのか、私にはよく分からない。
それって、「瀕死の病床にある人間からきかされる不老不死の秘訣」とか「死刑囚の語る裁判必勝法」と同じじゃないのか、とウチダは思う。