5月1日

2002-05-01 mercredi

なんとか熱は下がったが、思考力がないので、TVでサッカー観戦ならびに阪神戦観戦。
ウチダはラグビー以外はTVも見ない人間なのだが、今年はW杯ということで、世間のみなさまといっしょに盛り上がるべく、ナショナルチームの試合だけはチェックしている。
サッカーの場合は、どうも解説者とアナウンサーのことばが耳障りだ。
妙に浮き上がっているか、妙にクリティカルであるかどちらかで、対象との距離のとりかたが悪い。
TV解説ではセルジオさんという人がコメントしていたが、この人が何ものなのか、何ものとしての立場から発言しているのか、聴いていて分からない。
ヨーロッパや南米を転戦した元超一流プレイヤーなのか、どこかのナショナルチームの代表監督経験者なのか、日本代表チームの強化をサッカー協会から委託されたコーチなのか。
まさか一介ののサッカー評論家ではこれほどえらそうに語れるはずがない。
プレイヤーに対する評価も、ほめすぎかけなしすぎか、どちらかであって、妙にねちっこくて、涼しい愛情が感じられない。
それに比べると、ラグビーの解説の場合は、ナショナルチームのテストマッチでも、相手チームを敵視するような発言も愛国主義的絶叫もなく、一流選手だけが語ることのできる鋭く技術的なコメントがときどきぽつりとはさまれるだけで、選手をつねに「大畑君」というふうに距離感と親しみの両方が感じられる敬称で呼ぶのも好感がもてる。
サッカー批評において私が日本で一番信用しているのは(他の分野でもそうであるが)小田嶋隆である。
今回の試合についての小田嶋のコメントを再録しておこう。私は小田嶋を(他の問題についてもそうであるように)100%支持する。
全文を読みたい方は「おだじまん」へ。

セルジオが吼えているので、途中でビデオ鑑賞を断念。
私の目で一度観たゲームど、もう一度セルジオの目で観る理由がどこにあるだろう。
スタジアム観戦のもたらす福音ひとつは、先入観なしに試合を観られることだと思う。
腹に一物ある解説者がミスリードをたくらんでも、ナマで観戦した者の脳内映像を編集することはできない。
セルジオよ。
柳沢は、あんたが言うほど悪くなかったぞ。
百歩譲って、柳沢を右サイドに置く采配が言語道断の奇策であるのだとしても、試合の位置づけ次第では、奇策もまた策だ。こんなことは、キミだって本当はわかっているはずだろ?
戦術の深化のために戦略的敗北が必要であるのと同じ意味で、システムの活性化のためにはシステムの死が不可欠だ。とすれば、柳沢の右サイドは、無意味だという意味だけでも意味がある。そうじゃないか?

言っておくが、
「ゴールキーパー無しの試合をやってみたい」
というトルシエの発言は、あれはジョークではない。
状況が許せば彼はそれをやるだろう。
「そんなものはサッカーではない」
とキミは言うだろう。
私もそう思う。
しかしながら、ピッチャーにとって 27 三振が究極の投球であり、4 回戦ボクサーの考える理想の試合が眼鏡をしたままのファイトであるように、ある種のサッカー監督はキーパー抜きのゲームを夢想するものなのだ。
わかってやってくれ。
そして、トルシエを勘弁してやってくれ。
不埒な理想でも持ってないよりは良い、と、そう考えてやろうじゃないか。
何? 代表監督は何よりもまずリアリストでなければいけない?
うん。その通りだ。
でも、リアリストが日本の代表監督を引き受けると思うか?
それに、私見を述べるなら、私はリアリストの失敗に加担するよりは、ロマンチストの敗北につきあってやるつもりだ。

トルシエ・ジャパンについての国民感情をこれほど適切に語ったことばを私は他に知らない。

父親の再入院のお手伝いをしてから町田で、T摩書房の編集者のK山さんと、新書の打ち合わせ。
打ち合わせといっても、まだどんな本にするのか、彼にも私にも腹案がないので、「どんな本にしましょうか?」というお気楽な話に終始する。
私の特技はこういうときに、「実は前から思っていたんですけど・・・」という静かな前振りで、3秒前に思いついたことを口から出任せでいくらでも話せることである。
この技は「3秒前に思いついたことを、これほど確信ありげに人間は話せるものではない」という世間の常識の虚を衝いているので、なかなか見破られないのである。

K山さんと「出版危機」と「新書戦争」について話す。
新書へのシフトは、人文科学、社会科学系の単行本が売れなくなったので、だいたい同じような内容をいささか希釈して、読みやすい廉価版で提供するという、それ自体は悪い趣旨のものではない。
しかし、問題は、その読者が50代、60代の男性サラリーマンに限定されているということと、「入門」的なものを読んで「何となく分かった気になって、それでおしまい」で、さらに興味がわいた方面にディープにわしわしと読み進むようになる、ということがない、ということである。
彼らはいわば悪しき「教養主義」の最後の世代であり、最後の世代に相応しい負の刻印を背負っている。それは「何でも知ってる、ちょっとずつ知ってる。でも深くは知らない、深くは考えない」ということである。
その下の、40代ー30代後半の諸君は、かの「ニューアカ」の洗礼を高校大学時代に受けたせいで、「知的であるとは最新の思想のモードにキャッチアップすることである」という拭いがたい原印象の虜囚である。それゆえ、ご本人たちが「最近のはやりもんには、オジサンたちは、もーついていけんよ」と自嘲気味に『東スポ』を読み出した瞬間に、およそあらゆる知的営為に決然と背を向けてしまうのである。
30代前半以下になると、もう「本を読む習慣がある」人間の数は「手相を読む習慣がある」人間の数より少ない。

これはもちろん彼らのせいではなく、表層教養主義の「オールドアカデミズム」と、ポップでクールでスカスカな「ニューアカ」の先行二世代の責任である。
第一の世代の罪は、知は「網羅的、百科全書的」でなければならない、というこけおどしで人々を恐れ入らせたことにある。
第二の世代の罪は、知的前衛でありたければ、息の続く限り「最新流行」を追い続けなければならず、「***なんて、もう古い」という切り捨てには誰も反論してはならない、という大嘘を信じ込ませたことにある。

知性はどのような意味でも「網羅的」であることなどできない。
知とは本質的に「選択する」作業であり、ある「読み筋」にまつろわぬすべてのデータを排除し、無視することではじめて成立する。
知が網羅的でありうる、という前提そのものが間違っているのだ。
経験的に言って、ありえないことを目標にかかげる人間はどこにもゆきつけない。
知的前衛であることが知性の最高到達点であると信じ込み、「・・・なんて、もう古い」が批判のワーディングとして成り立ちうると思い込むのは、ただの近代的進歩史観である。
いかなる論拠によっても、私たちは後から来たものは、先にあったものより「すぐれている」と言うことはできない。
私たちが知っているのは、カール・ポパーが教えてくれたとおり、「あとから来る理説」によってできうるかぎり「反証しやすい」形態で命題化された理説は「科学的」であり、どんな反証がなされても、あれこれ言い逃れができるように設計された理説は「反科学的」だ、ということだけである。
知性の質が計量されるのは、同時代であれ、先行後続世代であれ、反論者にたいする「対話的な開かれ方」のマナーだけであり、どちらがあとから語ったか、というようなことには何の意味もない。

しかし、戦後半世紀、アカデミズム二世代がかりの日本国民知性劣化戦略がみごとに奏功して、人々は教養を厭い、知的流行を憎悪するようになり、そうしてまったく本を読まなくなった。
なぜ「網羅的知識を持とうと望む必要はない」こと、「知的流行を追う必要はない」ことを、きっぱりと断言し、「あなた自身の極私的知的課題を、深く、熱く、全身をあげて、執拗に追い求め、その深みからあなたにだけ見え、あなたにだけ記述できる世界の眺望を語ること、それこそが、知性の王道である」と言い切る学者がいなかったのであろう。
いたのかもしれないが、少なくとも私はレヴィナス老師のほかにそう語った学者には一人も出会ったことがない。

もう一度日本人を書物に呼び戻すためには、現代日本社会に深く瀰漫している「知的なもの」に対する嫌悪と憎悪を払拭する必要がある。
「知的である」ことは、「お金があること」より「健康であること」より「ルックスがいいこと」より「権力があること」よりも、ずっと人間の本性にかなっており、気分がよいものであるということを思い出してもらう必要がある。