4月30日

2002-04-30 mardi

選挙があったり、幹事長の愛人疑惑があったり、石原慎太郎の「出馬」宣言もどきがあったり、有事法制、メディア規制、郵政民営化と国会もごたごたしたり、政局はなんだか混迷の度を加えているようである。
内田家のみなさんと政局について意見交換を行う。
結論は小泉首相は国会解散して、新党結成して構造改革を公約にして最後の勝負に賭けるしかないでしょう、ということになった。

有事法制にしてもメディア規制法案にしても、法案の条項そのものに整合性がないわけではない。
その整備の必要であることを説くロジックに大きな瑕疵があるとも思えない。
にもかかわらずこれらの法案への反対の声が大きいのは、これらの法律が、それを実質的に運用する内閣、国会、官公庁に高度にデリケートで適切な政治判断が求められる「運用依存的」な法律であるからである。
条文がどれほど整合的でも、運用当事者の運用能力に疑義があれば、「運用依存的」な法律に賛成することはむずかしい。
希代の悪法である治安維持法であれ、運用者の政治的判断が適切であれば、あれほどの災厄をもたらすことはなかっただろう。
その反省があればこそ、条文に整合性があっても、運用者の弾力的運用の範囲が広い法律に対して、戦後日本社会は一貫して懐疑的だったのである。

有事法制についてもメディア規制法案にしても、その趣旨に反対するものはいない。
しかし、連日の報道を徴するかぎり、政治家、官僚、警察官、検察官など、法律運用に当たるべき当事者たちは、それを適用されて摘発されることになる一般国民よりも、どうみても遵法精神において高いとはみなしがたい。そのような人々に、私権の制限や、報道の自由を規制しかねない法律運用権を委託することに同意してほしいと言われても、軽々に肯うことはできないだろう。

だから、これらの法律をめぐって、条文の整合性や、他国の同種法律との異同を軸に論じることはほとんど意味がないと私は思う。
法律を守ることより私利私欲を優先しかねない人間たち、自分たちの私権の擁護を公共の福利より優先する人々に、国民の私権の制限の範囲を判断を委ねることに同意してくれ、と言われても、それは無理である。
もし、これらの法案を通したいのであれば、政治中枢にいる人々は、高度の政治判断ができるできないという政治的識見を論じる以前に、「ふつうの国民以上に法律と人倫を守る」人であることを証示できなければならないだろう。
まず税金を払ってね。ちゃんと。あとの話はそれからだ。