4月29日

2002-04-29 lundi

連休が始まったが、金曜から先週に引き続きまたまた発熱。
ほんとうに「蒲柳の質」とは私のことである。
体温計ではかってみたら37度。これくらいの微熱がいちばん困る。寝付くほどではなし、さりとて起きて仕事をするにはつらい。
金曜は大学までふらふらしながら行って授業を二つと会議を一つ。
家に帰って、そのままベッドへ。
土曜は合気道のお稽古。休むほどではないが、身体がだるく、背中や腰の関節がぴりぴり痛む。
そのままウッキーの「独立祝い」の祝宴に。
生来の「宴会体質」なので、ビールやシャンペンを飲みながらわいわい騒いでいる限り、なんでもない。
9時においとま、家ににもどってそのままベッドへ。目が覚めたら午前11時。たっぷり眠ったのだが、依然として熱は引かない。
東京へ父の見舞いにゆく予定であるが、どうしようかとベッドの中でうつらうつらする。

午後1時をまわったころ、ようやく腹を決めて出かけることにする。
新幹線の中で爆睡しているうちに新横浜着。
ヘッドフォンで志ん生の『寝床』を聴きながらよろよろと自宅へたどりつく。
熱があるので、遅くなったと言い訳をするのだが、概してひとびとは病人に対してあまりフレンドリーではない。

「だいたいタツルは、すぐに病気になりすぎる」
「ろくなものを食べないで不規則な生活をしているからにちがいない」
「生き方をただちに改めるように」

といった、病人を勇気づけるというよりはむしろ猛省をもとめるコメントを頂く。
こっちも弱っているので、「私はむかしから病弱な人間なんだってば」と弱々しい抗弁を試みるばかりである。
しかし内田家のみなさんは口は悪いが気のよい人たちなので、小言のあと3000円のユンケル(が特売で1980円)などを勧めてくれる。
兄上をまじえて、一時帰宅の父親を囲んで「一家水入らず」の夕食。
ふつうの家では、息子たちが結婚して子どもができたりすると、配偶者や孫たちがぞろぞろ集まるのを会食の基本とするようであるが、内田家では、配偶者や孫たちは「ファミリー」の正規メンバーには算入されていない。
両親と兄と私の四人で会食したり旅行したりするのが「基本型」なのである。
これはかなり特殊な家族のあり方と言ってよいであろう。
というのは、この「親族の基本構造」というのは、かなり幻想的なものだからなのである。

このメンバーで家族が実際に営まれていた期間は1950年から1969年までにすぎない。
60年代中期からは中学生高校生の生意気兄弟をまじえた会食はしだいに「なごやかな一家団欒」から「説教と言い訳と居直り」の場と変じ、家族で会食することは家族の誰にとっても次第に苦痛なものとなっていった。
67年には半年私が家を出ていたし、69年には兄が、70年には私が家を離れた。
つまり、「内田家水入らず」幻想の原型となった家族関係とは、私がものごころのついた1954年くらいから、兄が反抗期に入った1963年くらいまでの、わずか8,9年のことにすぎないのである。
しかし、内田家のみなさんにとって、この1954-63年の「内田家の黄金時代」はそれぞれにとって生涯最良の日々のひとつであった。
父親の会社は順調に業績をのばし、生活は一年ごとに楽になっていた。家庭は電化がすすみ、毎年のように冷蔵庫、洗濯機、掃除機、テレビ、ステレオ・・・と家具が充実し、母は家事の終わりなき苦役から解放され始めていた。息子二人は次男が病弱であったことを除けば、おおむね順調に育ち、父も母も断念した大学にまで進学できそうであった。
東京はまだオリンピックの狂騒的な乱開発の前で、家の前は麦畑とネギ畑が広がり、春には菜の花が咲き、冬は霜柱を踏み砕きながら学校に通っていた。
ラジオではシナトラやベラフォンテやキングコールにまじって、若きエルヴィス・プレスリーの曲がしだいにひんぱんにかかるようになってきて、子どもたちは『赤胴鈴之助』や『昨日の続き』のあいまに、どきどきしながら「ハウンドドッグ」に耳を傾けていた。
安保闘争も三井三池争議も、私たちには遠い出来事だった。
それは小津安二郎の『お早う』が描いた多摩川べりの住宅地の日常のままの、ずいぶんのんびりした生活であった。

内田家の人々が「水入らず」で集まることにこだわるのは、たぶんあの50年代終わりから60年代はじめの、「日本はこれからも平和で、民主的で、住み良い国であるだろう」という気楽な見通しのうちに日本人の大多数が安んじていた時代へのノスタルジーを、暗黙のうちにみなさんが共有しているからではないか、と私は考えるのである。