4月24日

2002-04-24 mercredi

共同通信に書いた「天皇と芸能」についてのエッセイが『沖縄タイムズ』に掲載されたらしい。真栄平先生から「読みましたよ、ふふふ」というご挨拶を頂いた。
真栄平先生は沖縄のご出身である。ちゃんと故郷の新聞を定期購読しているのである。
仙台在住だが名古屋出身なので「中日新聞」を取り寄せているとか、福岡在住だが北海道出身なので「北海道新聞」をとっている、とかいうひとがいることを寡聞にして知らない。
おそらく、どこの土地の新聞を読んでも別にかわりばえがしないからだろう。
しかし、真栄平先生があえて『沖縄タイムズ』をご講読であるということは、沖縄の新聞と本土の新聞のあいだには報道の「温度差」があるということである。
考えてみたら、沖縄は天皇制について論じるときにタブーがいちばん少ない土地である。
だって、つい江戸時代までは天皇、将軍のほかに琉球王というものが存在して、少なくとも形式的には三権が並立していたわけだから。(そういえば、第二次世界大戦後の全国行幸のときも、昭和天皇は沖縄にだけは足を踏み入れていない。日本政府のがわに軍政への政治的配慮があったのかもしれないし、沖縄は伝統的には「豊芦原瑞穂国」の一部としては観念されていなかったからかもしれない。)
憲法記念日用の原稿として書いたのだから、『沖縄タイムズ』はずいぶんはやく配信記事を掲載してくれたことになる。
沖縄のひとにとっては「面白い」記事に思えたのだろうか。
そうだったら、うれしい。

3年生のゼミは、「幽体離脱」のできる池田さんによる「霊魂」のお話。
こういう話を大学のゼミで扱うと「ウチダさん、ちょっとまずいんじゃないの、そーゆーヨタ話は・・」というようなことを言う人がいるが、それはいかがなものかと思う。
うちの大学はキリスト教を建学の精神とする大学である。
キリスト教は霊魂の存在を認めている。というか宗教体系の全体が霊的なものの運動を軸に成立している。『聖書』をよめば、そこらじゅうに「霊」がわんわん出てくる。族長や預言者たちに主の栄光が臨むのは当然としても、新約の使徒たちにもすぐに霊は下るし、パウロだって「霊の賜物」を全世界にわかちあたえるために伝道しているのである。
その大学で「霊魂の話はちょっと・・・」というのは筋が通るまい。

私のお師匠さまはお二人とも信仰をもつ方である。
レヴィナス先生は篤信のユダヤ教徒であったし、多田先生は密教と神道の行法を修めている。
ただしお二人とも、その信仰のあり方はある意味非常に「近代的」である。
「近代的」というのが悪ければ「ヒューマン」な信仰である。
レヴィナス先生は神秘主義やオカルトが大嫌いである。それが人間を霊的に高め**ないからである。
多田先生にとって霊的なものはつねに人間のポテンシャルを開化させる契機との関連で語られる。
信仰は、人を「高める」ためにある。人を「成熟させる」ためにある。
信仰を得たことによって安心したり、うぬぼれたり、他人を見下したり、「超越的なもの」と直取引ができたように気になったり、世界の秘密が分かったような気になったりするのは、信仰による「幼児化」である。
そんな信仰を持ってはならない、というのがわが師たちの教えである。
信仰は人を不安にさせ、謙虚にさせ、他人を敬愛する方法を教えるものである。
科学信仰や歴史信仰も、それと同じである。
世界の成り立ちについての「一元的説明」を信じ込み、それによって「安心」している人間は「鰯のアタマ」を拝んでこれで現世の御利益の来世の安寧も保証されたわと「安心」している信者と、素朴さと幼児性において選ぶところがない。

私はレヴィナス先生には叱られそうだが、オカルト話も大好きである。
それは「おお、ホレーショよ、世の中にはおよそ哲学の及びもつかぬことがあるわい」という感嘆の声をあげることが好きだからである。
ウチダは「びっくりする」のが好きなのである。
さいわい、ゼミ生たちはみんなそれぞれ「びっくり話」のネタに事欠かず、「おおお」とか「わわわ」とかいう感嘆の声がゼミ室にいつまでも響きわたったのである。