4月21日

2002-04-21 dimanche

土曜日はフレッシュマンキャンプ。
今回は難波江さんのクラスにまぜてもらう。
一年生21名と懇談する。
私がフレッシュマンキャンプを主宰しているころは、懇談というより宴会という雰囲気のうちにだらだらと一夜が過ぎたのであるが、難波江さんはさすがに「きちきち」した人であるので、みんなぴちっと椅子に座ってぱしぱし質問する難波江さんにてきぱきと答えている。(という全体に「ぱ行」の多く感じられるミーティングであった。)
有用な情報多数が得られ、さっそくそれを「ゆめうつつ」メーリングリストに書き送って総文教員全員に周知する。

総じて、今年の一年生は「なかなかできる」という印象である。
一時期(震災のあと)、ずいぶん入学者偏差値が落ちたことがあり、ある年、四月の最初、新入生のいる教室に入ったら、それまで聞き慣れない「発声法」で学生たちが話すのでびっくりしたことがある。(破裂音と擦過音の多い、「がりがりきいきい」いう声なのである。)
そのときに私は「破裂音・擦過音の多さと学力の相関」について直観を得たのであるが、その後数ヶ月たつうちに、学生たちは「ふつうの声」で話すようになってしまったので、理論の進化はなされなかったのである。
ことしのこの一年生たちはたいへん「声がよい」。
耳障りな「音」を出すものがいない。21人もいてわいわいご飯を食べているのだが、気持のよいざわめきである。
これはウチダ理論によれば、学力が高いことの指標である。
総文の偏差値は今年前年比で2.5ポイントほど上がったはずである。(予備校が出す数値だから、多少ばらつきはあるが)
このままポイントがあがってゆくと、あとちょっとで「全国大学ランキング」の「A級校」に入れる。(これは偏差値56以上。「超A級校」は慶応・早稲田・上智・ICUの四校だから、その一コ下のカテゴリー)ここに入れれば、「ほっと一安心」である。
よし、来年の目標は「A級入り」だ。

おじさんたちも学生に触発されて、いきなり教育的情熱に駆られ、食卓で隣にすわった学生たちをつかまえて、朝からギリシャ神話やシェークスピアについての基礎的教養がいかに必要であるかについて滔々と論じ立てる。
朝からやかましくて、ごめんね。

家に戻るが、なんだか朝から一仕事終えたような気分なので、そのままずるずる昼寝。
昼過ぎにのそのそ起き出してから、『メル友交換日記』(仮題)のゲラ校正をする。
「在日と共生」という主題で書いた部分が、他に比べてどうも「生硬」である、という指摘を編集の内浦さんから頂いたので、手直しをすることにする。

どうもこの問題になると、私のようなおしゃべりでも、口調が「硬くなる」。
どんなことを書いても、必ず誰かが「熱くなる」からである。
私はだいたい何を書いても人を怒らせてしまうのであるが、この論件については「怒り」方がはんぱではない。
天皇制と在日コリアン問題と憲法九条と自衛隊はそういう意味でたいへん危険な論件である。
これらの問題については、なぜか人は異論に対して暴力的なまでに非寛容になるからである。

「ぜったいこうでなきゃダメ。私に反対するやつは非国民(または「帝国主義者」または「人種差別主義者」)である」

というような言い方になる。
英国王制や在フランス・モロッコ人問題やアメリカ憲法修正四条問題や人民解放軍についての議論においては、「ふむふむ」と異論に耳を傾ける人たちも、なぜかこの問題になるとやおら甲高い声をあげて、相手のことばを制するようになる。

これらの論件については、異論を聞くだけでアイデンティティの危機を感じるようになるということは、そこで選択される政治的立場がそのひとの個人的なアイデンティティの成否にふかくかかわっているからである。
そのほかの論件については、政治的立場と個人のアイデンティティはこれほど深くはつながっていない。

私はもともと、その人が奉じている社会理論と、その人の人間的クオリティのあいだにはあまり関係がない、という考え方をしている。
だから、「マルクス主義者だからダメ」とか「フェミニストだからバカ」とか「天皇主義者だから人種差別主義者」とかいうような短絡的な判定には与さない。賢明なるマルクス主義者もいるし、思慮深いフェミニストもいるし、他者に親和的な天皇主義者もいる。ひとはいろいろだ。
しかし、そういう考え方をする人はあまりいない。
ある種の政治的立場をとることと、個人の知的・倫理的資質のあいだには切り離せないリンケージがある、というのが現在、左翼右翼を問わず、言論を事とする人たちの間で支配的なイデオロギーである。

私はそういうふうに思っていない。
だから、どんな政治的事件についても、てきとうに、その場で思いついたことをだらだら書く。
私があれこれ発言するのは、べつにその意見にこだわりがあるからではない。(私は持説を撤回すること風のごとく疾い。)
ある意見を言うのはキャッチボールのようなもので、それを受けとめて、他の人たちがどんなボールを返してくるか知りたいだけである。
だから、「ストライクゾーンはここだけだから、このゾーンに入らない球はキャッチしてあげない」とか、「このゾーンからはずしたら殴る」とかいうようなことを言われるとすごく困る。