4月17日

2002-04-17 mercredi

天皇制についての原稿を書いたということを書いたら、いろいろな人からご意見が寄せられた。
それについてさらにあれこれと答えている。
上野千鶴子の定義によると、「王権制」とは「共同体の内部と外部を架橋する媒介者のポジションに特権が集中する」という権力制度のことである。
常識的に考えると、そういうたいせつな仕事は、その集団において、いちばん知性的で、いちばんものの事理がわかっていて、いちばん成熟しいる「まっとうなおとな」が担当するのが筋だろう。
だが、じっさいにはそうではない。
日本の場合、どうもこの「媒介者」のポジションをむしろ「きわだって変なひと」が占めるということが構造化されているんじゃないかと思うことがある。

例えば、アメリカではロナルド・レーガンは大統領になったし、クリント・イーストウッドだってカーメルの市長をしたことがある。グレゴリー・ペックとかヘンリー・フォンダとかマーロン・ブランドとかジョン・トラヴォルタとかは機会があるごとに政治的発言をして、「成熟した政治意識をもつ市民」であることを示そうとする。
彼の地の映画スターたちは「変なひと」であることではなく、「すごくまっとうなひと」でありたがるのである。
だからケーブルTVのインタビュー番組にでてくるハリウッドスターたちのいうことはさっぱり面白くない。まるで「道徳の先生」みたいなネムイことばかりしゃべっている。

ひるがえって、日本の映画俳優で「成熟した市民」であることをことさらに誇示する人はいない。むしろ、いかに自分が幼児的であり、世間知らずであり、掟破りであり、逸脱者であるかを嬉々として語る。
それと関係があるかどうか知らないけど、我が国では、映画俳優が政治家になった例というのを寡聞にして知らない。
じゃあ、その政治家はどうかというと、これもどう見ても「成熟したおとな」を選び出しているようには思われない。
田中真紀子とか鈴木宗男とか辻元清美とか、さいきん話題になった政治家たちを思い浮かべて、その中に「成熟したおとな」「共同体の利害を体現する知者」というようなたたずまいをもつ人はいない。
みんな「きいきい」叫ぶばかりの「変なひとたち」である。
だいたいいまの最高権力者御大ご自身が、かつて田中真紀子が「軍人凡人変人」という絶妙のコピーを詠んだときの「変人」宰相そのひとである。
あるいはまた、タレントから政治家になった方々を拝見すると、田嶋陽子、栗本慎一郎、桝添要一、野坂昭如、大橋巨泉、田中康夫、立川談志・・・
どうみても「それぞれの職能集団を代表する長老」とか「賢者」というよりは、「それぞれの集団において、メインストリームからはぐれたひと」である。

つまり、日本というのは、それぞれの集団における「模範的な個体」ではなく、むしろ積極的に「異形のもの」を「媒介者」として析出し、彼らが共同体の外部との媒介者の地位を占め、ある種の差別とある種の特権を同時に享受するという構造を持つ社会のようにウチダには思われるのである。
いうなれば「トリックスターがスター」社会である。
このような社会を支えている心性というのは、かなり「変」だと思う。
こういうことって、ヨーロッパのような「階級社会」にも、あるいはアメリカのような「グローバル・スタンダード」社会にもありえないことだと思います。
そういう社会では、その社会において「これは価値がある」と公共的に認知されているものの所有とご本人の権力のあいだには、あきらかにプラスの相関がある。
しかし、日本にはなんだかそれが「ない」とまではいわないけど、微弱なような気がする。
日本において「成熟すること」への動機づけが弱いのは、もしかすると「成熟したおとな」になることと権力や威信のあいだにさっぱりリンケージがないからかも知れない。
そのような権力構造と古代王権制のあいだには、なにか深いむすびつきがあるのではないか。ウチダはそう愚考するのである。