4月16日

2002-04-16 mardi

人はしばしば「主観的願望」と「客観的情勢判断」をとりちがえる。
「・・・であったらいいな」という欲望が「・・・である」という事実認知に置き換わってしまうのである。

いまから30年前、まだ学生運動のさかんだったころ、私たちが読まされたアジビラはまず「情勢判断」から始まるのがつねであったが、そこには例外なく、「いまや階級情勢は革命前夜のクリティカルな局面にあり、いま、ここでのほんのわずかな政治的行動の成否が以後の階級関係を決定的に規定するであろう」というふうな文言が並んでいた。
私はそういう文章を読みながら、「ほんとかなー」と疑問を感じていた。
たしかにそのころ、東西冷戦はまだ継続中だったし、ベトナム戦争は泥沼化していたし、中国は文化大革命の大混乱のうちにあったし、先進国の政治情勢はどこも不安定だった。
しかし、60年代末の反体制運動の全世界的な高揚期は去り、少数の突出した集団だけが過激化・テロリスト化したせいで、かえって社会変革の全社会的な気運は急速にしぼみつつあるように私には思えたからである。
そして、不思議なことに、階級情勢がどんどん「不活性化」してゆくにつれ、アジビラの「危機」を煽る文言はますます饒舌になっていったのである。
1960年代の終わりに、廣松渉はあと数年で日本は革命前夜的状況に突入するときっぱり「予言」し、革命戦線構築の急務であることを力説していた。
いったい何を根拠に廣松はこんな未来を予測できるのか、そのときの私には見当がつかなかった。
そのあと廣松は東大の哲学科の教授になって、「世界の共同主観的存立構造」について深遠な思弁を展開していたけれど、あの「予言」の「おとしまえ」がどうなったのかは寡聞にして知らない。
私はべつに廣松に文句があるわけではない。(愛読してたし)
そうではなくて、廣松渉ほどの知性でさえ、「主観的願望」と「客観的情勢判断」を混同することがある、ということを指摘しておきたいのである。

何が言いたいかというと「有事法制」である。
昨日の閣議で武力攻撃事態法案をはじめとする「有事関連三法案」が決定され、今国会での成立にむけて与党の合意が成った。
これについてはすでに賛否両論がメディアをにぎわしており、私が諸賢に付け加えるべき新奇なる情報は何もない。
ただ、新聞記事を読んでいて「ふーん」と思ったのは、有事法制の推進者たちの「主観的願望」のあり方についてである。
福田内閣のときに有事法制研究が始まって25年も「タブー視」されてきた有事法制がここにきて一気に国会日程にのってきたのは、ご存知のように98年の北朝鮮によるテポドンの発射、01年9月11日のテロ、12月の不審船事件、そして中東で日常化しているテロと戦闘の映像に日本の有権者が「慣れて」きたからである。
「そういう事態がもうそこまで来てるんですよ」
というアオリ方をされると「ふーん、そうか」と思うのは凡人のつねである。
またぞろで申し訳ないが、弘兼憲史が朝日のコメントにこう書いている。

「日本が有事に直面した時にどうするのか、できるだけ早く法制化すべきだと考えてきた。法制化に反対する人たちは、何のために必要なのかと言うかもしれない。国際情勢が変化したとはいえ、私は、日本を武力攻撃する可能性のある国は、今でも周辺に複数あると思っている。いざという時のための準備をしておくのは当然である。」

これだけ読むと「ふむふむもっともだ」と思う人も多いであろう。
私も「ふむふむ」と読んだ。
そして、「あ、これはむかしの『あれ』に似てるなあ」と思ったのである。
そう、60-70年代にうんざりするほど読まされたアジビラと弘兼のコメントは、文脈こそ違え、伏流している思考パターンは酷似しているのである。
弘兼は「外国からの武力攻撃」の可能性を「客観的判断」として書いているが、実はここには弘兼の(無意識の)「主観的願望」のバイアスがつよくかかっている。
外国勢力が、「平和ボケ」して、何の「危機管理」の備えもない日本社会を急襲し、その社会システムがいかに脆弱であるかがあきらかとなり、国民全員がわが身大事と私利私欲に走って、まともな抵抗活動が組織できないこと、市民運動や人権派の運動がどれほど深く国益を損なうものであったかが事後的に暴露されること、それをこそ弘兼は「それとしらずに」切望しているのである。
だって、弘兼の「正しさ」を論証する最良の方法は、まさに「何の備えもない日本が外国にぼろぼろに蹂躙されること」にほかならないからだ。
誰だって気がついたと思うけれど、「テポドン」や「テロ」のときにTVを見ると、国防の急務であることを説く保守派の政治家が勢いづいて、元気いっぱいであるのに対して、非戦派・護憲派・人権派の政治家は気合いの入らない「暗い顔」をしている。
それも当然。「国防の急務である」という彼らの主張が条理にかなったものであり、先見性を備えたものであることが論証されるためには、日本が外国の武力勢力によって侵攻されることがいちばん有効だからである。
変な話だけれど、まさに現実はそうなのだ。
有事法制についてのありうる未来は次の六通りしかない。

(1)法制化をしなかったが、どこからも武力侵攻がなかった
(2)法制化をしないままに外武力侵攻にあったが、効果的に国防活動がはたされた
(3)法制化をしないままに武力侵攻にあって、ぼろぼろに蹂躙された
(4)法制を整えたが、どこからも武力侵攻がなかった
(5)法制を整えたあとに武力侵攻があったが、効果的に国防活動が果たされた
(6)法制を整えたが、武力侵攻にあって、ぼろぼろに蹂躙された

この六通りである。
この六通りの未来のうち、事後的に有事法制の緊急な整備を正当化してくれるのは(3)と(5)の場合だけである。
しかし、(5)の場合は、法制化のおかげで勝利し、法制化がなされなければ敗北した、ということが証明されなければならない。それは不可能である。というのは、何かが失敗したときに単一の有責者を指定すること(「あいつのせいだ」)には集団的な同意がとりつけやすいが、何かが成功したときに、単一の成功因を指定することは事実上不可能だからである。(全員が「私のおかげだ」と言い出すからである。)
つまり(3)以外はすべて有事法制をいまここでおおいそぎで制定することの必要性に論拠を提供しない未来なのである。
繰り返し言うが、国防の喫緊であることを説く理説を宣布するいちばん効果的な方法は「危機をあおる」ことであり、その正しさを証明するいちばん確実な方法は「侵略されること」である。
だから、どこの国でも、ナショナリストは、戦争を防ぐため、国民と国益を守るために必死に論陣を張っているおのれの努力が正当に評価されていないというフラストレーションをかかえこむうちに、いつのまにか、戦争が起こること、国民が殺され、国益が損なわれることを無意識に待望するようになる。
倒錯した欲望だ。
けれども、彼らの洞見が称えられ、彼らのの社会的威信とポピュラリティを高めるためには、外国の侵略が不可欠なのである。
だとすれば、心弱い人間が、どうしてそのような「非常時」を切望することを抑圧できようか。
だから私は弘兼を責めているのではない。
9月11日のニューヨークのテロのとき、アメリカでも日本でも躍り上がって喜んだ人々がたくさんいたはずである。

「これで軍事予算がつくぞ。これで国論が統一できるぞ。これで有事法制にはずみがつくぞ」

はずかしいことだが、人間は弱いものだ。そう思うのはしかたがない。
だから私は弘兼がかりにそれと知らずに「外国の工作員が侵入してきて原子力発電所が破壊された」り、「不審船が領海内でミサイルで攻撃をしかけて」くるような事態を心待ちにしていたとしても、それを咎めようとは思わない。

ここで話はもとに戻るのだが、主観的願望、それも本人がそれを意識することに抑圧が働くような主観的願望は、その人の情勢判断に深く、決定的な影響を与える。
「有事への備えが必要である」という判断をするひとは、目に入るあらゆる情報の中から、彼のその判断を支持するような論拠だけを選択的に拾い集めるようになる。十分な論拠がない場合は、自説を支える論拠-「有事の発生」-を切望するようになる。
これは自然科学者の場合だって同じである。(ダーウィンは、自分の仮説に反する研究データはすべてノートに記載する習慣を持っていた。「自分の仮説に反する研究データ」を研究者は組織的に失念することをダーウィンは知っていたからである。)
政治家が自分の政治的判断になじまない情報やデータを意識から排除すること、それは人間である以上しかたがない。
しかたがないけれど、「人間は自身の主張になじまない情報を排除して、つごうのよい情報だけを拾い集め、総じて客観的情勢判断のつもりで主観的願望を語る生き物であり、私もその例外ではない」ということは、クールになりさえすれば意識できることなんだから、意識しておいて欲しいと思う。
いまいちばん必要なのは、「日本が武力攻撃される可能性とパターンとリスクヘッジとコストパフォーマンス」についての、いかなる「主観的願望」とも無縁な、クールでリアルで計量的な議論であると私は思う。
しかし、メディアを徴するかぎり、この論件について、主観的願望を自制し、クールダウンする努力をはらっている論者に私は出会ったことがない。
みんな「熱い」のだ。
それは弘兼と同じコラムに「有事法制反対」の議論を寄せている辺見庸もその典型である。
辺見のコメントは「全身が震えるほど強い怒りを感じる。」という一文から始まっている。私はそれだけでもうこの人の書くものの続きを読む気がしなくなった。
「全身が震えるほど強い怒り」に基礎づけられて社会が住み良くなる、というような社会的論件もたしかにある。
しかし、戦争はそのような論件ではない。
クラウゼヴィッツが指摘したように、国民国家の遂行する戦争機械に駆動力を供与するのは「怒りと憎しみ」である。
国民国家内部に蓄積される怒りと憎しみは、どのような形態のものであれ-戦争の成り立ちを説明する言説のかたちをとろうと、戦争抑止のための言説のかたちをとろうと-戦争機械に(少なくともその一部分は)収奪され、戦争機械を前に進める動力を提供する。
そのことはもう2世紀前から分かっていることだ。

ぜったいに「怒らないこと」。
クールになること。

それが戦争へのコミットメントを、戦争による災禍の到来を一秒でも先送りするための最良の方法であると私は信じている。
だから、軍事や戦争や侵略について語るときには、危機を望む主観的願望に身を任せることも、ベリシストへの怒りに身を任せることも、ともに自制しなければならないと私は思う。

外国に武力侵略されるのは誰だっていやだ。
そのことについては国民の意志は一致しているはずである。
だったら、根本的な利害は一致しているんだから、みんなもっと「ふつうの声」で話し合うほうがいいし、それができないはずはない、とウチダは思う。