4月13日

2002-04-13 samedi

共同通信から憲法記念日のための「憲法についての」エッセイを頼まれたので、天皇制について書こうと思って、送っていただいたいろいろな資料を読んでいる。
この論件については、大塚英志がひとりでがんばってあちこちで論陣を張っているのが印象的だった。
大塚英志の仕事は、そのむかし『本の雑誌』で連載していたマンガ論以来つねに敬意と関心をもって読んでいるが、憲法論議においても、イデオロギー的な対立図式に持ち込まずに、何とかして対立者と生産的な対話を行おうという基本的な構えを貫いているのが偉い。

憲法九条や自衛隊や天皇制については、どの党派的立場からであれ、「正しいのはこの意見だけ」というような主張の仕方をする限り、国民的合意は得られない。
この三つの論件は、「共同体とは何か」、「共同体にとって『外』とは何か」、「『外』と『内』を媒介する機能は『誰』が担うのか」という人間社会の存立についての根源的な問いにかかわっている。
根源的な問いというのは、一般解のない問いのことである。
できあいの図式にあてはめて「すっきりした」答えを出して、「ほら、こんなにすっきりした答えが出たんだから、みんなこれを受け容れなさい」と言い張ってもまず国民的合意は得られない。
だって、根源的な問いというのは、そもそも「すっきりした答え」が出ないから「根源的」なのである。
その問いについて吟味する知性のはたらきそのものの構造や規則性が、その「問い」のうちにすでに含まれているような問いだけが「根源的」といわれるのだ。
ややこしい言い方をしてすまない。
つまり、日本語で思考し、日本語で記述するだけでほかの外国語をまるで知らない人間には「日本語の文法構造」とか「日本語の音韻体系」というようなものを析出する方法がない、ということである。
憲法九条、天皇制、自衛隊の問題というのは「日本とはどんな共同体なのか」「日本の『外部』とは何か」「日本の『外部』と『内部』を媒介するのは誰の仕事か」ということにかかわっている。
さしあたりいちばん重要なのは最後の問いである。
すべての集団において「外部と内部を媒介するもの」、外部を専一的にコントロールするものが特権的なポジションを占める。これが「王権」というものの本質である。
現在のすべての言論の構造だってその意味では「王権」の覇権闘争と言えるのである。
「アメリカではみんなこうなんだよ」とか「ヨーロッパではこんなの常識」とか「専門家のあいだでは笑い話」とかいうようなワーディングはすべて「おれは『外部』との通路をもってるぜ」ということを誇示して、権力性をかせごうとするみぶりにほかならない。(だから前にNAMの本をよんだとき、私は柄谷行人は彼の作りだそうとしている理想社会における「天皇」になりたがっているのだと思ったのである。自分が天皇になりたがっている人間に天皇制の批判ができるだろうか、というのが「問いは根源的だ」というときに私が言おうとしていることである。)
閑話休題。話をもどすね。

社会制度については、「どうして今あるような不合理な制度が出来て、もっと合理的な制度にならなかったのか」と問うことは、「どうして日本語は英語ではないのか」というのと同じくらいに無意味な問いである。
レヴィ=ストロースはきっぱりとこう書いている。

「さまざまな信憑や習慣の起源について、私たちは何も知らないし、この先も知ることができないだろう。なぜなら、その根は遠い過去の中に消えているからだ。」

社会制度についての問いかけは、二種類の自制を要求する。
一つは、レヴィ=ストロースが言うように、「その起源について知ることは出来ない」という知的限界の自覚である。
もう一つは、「その起源を探求する」おのれの知性の中立性を不当前提することの自制である。レヴィ=ストロースはこう続けている。

「習慣は内発的な感情が生まれるより先に、外在的規範として与えられている。そして、この不可知の規範が個人の感情と、その感情がどういう局面で表出され得るかあるいは表出されるべきかを決定しているのである。」(『今日のトーテミスム』)

国民国家とか天皇制とか軍隊とかいうものについて、「きっぱりした意見」を持っている人々は、そういう政治的制度は「外」にあり、自分のそれに対する「感情」(共感や反感、親愛や嫌悪)は「内」にあると思って切り分けているのかも知れない。
しかし、社会制度から独立して、確固として存在する個人的感情や個人的意見などというものを想定してよいのだろうか。
親族構造が「母方の伯叔父と甥の親和」をファクターとして採用している集団では、必ず「父親と息子」は疎遠となる。父子が親密なら、伯叔父と甥は感情的に対立する。人類学はそう教えている。
親子の親疎の感情は、純粋に個人的なものだと信じている人がいるかも知れないが、人類学の教える限りでは、それは親族制度の「効果」にすぎないのである。
まず「親しみ」の感情があって親族が形成されるのではない。
親族が形成されてから、親族間ではどういう感情をもつべきかを制度が指定するのである。
私たちはそのつどすでにある社会制度の「内部」に投じられている。
私たちが「素朴な感情」や「自然な価値観」や「こころの奧からふつふつとわき上がる情念」だと思い込んでいるものは多かれ少なかれ社会制度によって媒介されている「つくられた心性」にすぎない。
私たち自身の「ものの見方、感じ方」を制度化している当の社会制度に対して、私たちが客観的、批評的な視座から、中立的な仕方で、その功罪を吟味しうると考えるのは、よほど自己中心的で愚鈍な知性だけである。

制度についての批判は、私たちが自分を含む制度を批判的に検証しようとするときに、どのようなデータをシステマティックに「見落とす」か、という問いから始める他ない。
「私たちは何を見ているか」ではなく「何から目をそらしているか」、「何を知っているか」ではなく「何を知りたがらないか」に焦点化するところから始めない限り、制度内的な知性が、当の知性の運用規則を定めている制度そのものを批判することは不可能である。
だから制度についての批判的対話とは、それぞれ「見えているもの」や「知っていること」について異同のある論者のあいだで、「ところで、私たちがともにそこから目を逸らしているもの、ともに知るのをためらっていることがあるとしたら、それは何だろう?」と問い交わしあうことからはじめるしかない、というのが私の持論なのである。

天皇制についての議論について、私たちがまじめに問おうとしないのは、「21世紀の高度情報社会において、なお太古的な王権制度が残存しており、その存続を70%以上の国民が支持している」というのは「どう考えても、変だけど現実だ」という事実である。
どうして、「こんなもの」がまだ残っているのか、どうして廃絶されないのか、廃絶どころかますます強固な基盤を獲得しつつあるように見えるのか、誰も納得のゆく説明をしてくれないのである。
左翼的な人たちは、簡単に「日本国民がバカだから」だと言ってすませている。
バカだからこそ、マッカーサーの陰謀とアメリカの世界戦略にのせられて、何の価値もない太古的遺制に、イデオロギー的、情緒的にしがみついているのだ、と。
これはあんまりだよ。
説明できない制度に出会うと、「誰かが陰謀で仕組んだのだ」と「それに気づかず、制度を維持している人間たちがバカなのだ」で済ませていればたしかに知的負荷はゼロである。
言う方は頭をぜんぜん使わなくていいんだからお気楽だろうが、それはただの思考停止、判断放棄にすぎないと私は思う。
「陰謀史観」と「衆愚説」を組み合わせれば、世界史上のすべての出来事は説明できる。
しかし、世界史上のすべての出来事が説明できる図式というのは、今、目の前にある出来事は、なぜこのように起こり、べつのようには起こらなかったのか、なぜこのように「特殊な」ありかたをとることになったのかを説明できない。というか、説明する気がない。
一方、右翼的立場の人たちは、天皇制は世界に誇る文化的政治的構築物であり、日本人の賢明さと志操の高さの証拠であると持ち上げる。だが、これも左翼の言説をまんま裏返してにすぎない。だって、要するに「日本国民はもともとはすごく賢い(いまはバカだが)」と言ってるだけなんだから。
どちらも「いまの日本国民はバカである」という前提を共有した上で、

「むかしは賢かったのでむかしのレベルに戻ろう=右翼」
「これから賢くなるので、未来に希望をつなごう=左翼」

と過去と未来に「丸投げ」して仕事を済ませた気になっている。
そんなのでいいのだろうか。
「どう考えても、こんな変な制度が現実にちゃんと機能しているのって、不思議だよな」という実感から始めて、「ま、日本人はバカなんだから、しかたないか」と安直に総括するのではなく、「どうしてなんだろう?」と素朴に受け止め、身の回りの出来事や自分自身の実感に基づいて、「どうしてなんだろう?」に自力で答えを処方するほかないと私は思う。

三島由紀夫は『文化防衛論』で日本人にとっての「美」の起源には天皇制がある、という議論を展開したが、これは論拠としてはずいぶん弱いと思う。
だって、「美しいもの」は(三島とは違って)私たち、ふつうの人間の行動にそれほど決定的には関与しないからだ。
私はむしろ「ふつうの日本人」が「享楽するもの」のうちに起源的に天皇制にかかわるものが非常に多く、天皇制を廃絶してしまうと、その「享楽」の淵源が枯渇することを日本人は無意識的に恐れているのではないか、という仮説を立てている。
その最大のものは「芸能」である。
網野義彦によれば、日本伝統文化のほとんどすべては天皇直属の「聖なる賤民」たちによって担われていた。(非人、婆娑羅、遊行者、河原者、遊女、傀儡師、工人、悪党、山伏・・・)
その人々が「後醍醐ルネッサンス」の失敗によって表から消えて、「裏社会」に入り込んだあとも、「芸能のはらむ本質的な異形性=魅惑は天皇制によって担保されている」という無意識の刷り込みが私たちには引き続きなされている。
それはたしかだ。
だからこそ、「聖なる賤民」が私たちの共同体とその「外部」とのあいだの特権的な通路を確保している、という説話原型を私たちは飽きることなく再生産しているのである。(例えば「ロックミュージシャン=遊行芸能者」という神話のあくなき再生産。「性産業=遊女」は秩序紊乱的快楽を提供するという性幻想、などなど)

私の仮説は、「異形性・異類性」とまったく無縁の「芸能」が愉悦の支配的形態になることによってしか、天皇制を畏怖する心性は克服できない、というものである。
天皇制的な異形性とまったく無縁な芸能とは何か?
それを探し当てることが私たちに課せられた「宿題」であると私は思う。(おお、今日は最後までまじめに書いてしまった。)