4月12日

2002-04-12 vendredi

なんだかのどが痛いなと思っていたら、熱が出てきた。
また風邪だ。
あたまがぼやっとしているので、ウッキーにメールして「今日の稽古はお休みします」と伝言。夕方から東京に行く予定にしていたが、それもキャンセル。
母に「風邪なの」と電話をしたら、「野菜を食べないからだ」と電話で説教される。
「ユンケル黄帝液」と風邪薬を併用するといいよ、というので、パジャマのうえにコートをはおって薬局に行って風邪薬とユンケルを買い、ついでにスーパーに寄ってミルクと苺と伊予カンを購入。
薬をのんでベッドで橋本治の『古事記』を読んでいるうちに爆睡。
夜に入って目が醒めたら熱は下がって、のどの痛みもなくなっていた。
やれやれ。

私はほんとうによく風邪をひく。
「蒲柳の質」というのはおそらく私のような人間のことを言うのであろう。
しかし、病気に罹りやすいというのは決して悪いことではない。
「病気になる」というのはシステムが健全に機能している証拠である。
たとえば、痛覚のない人間はすぐに死んでしまう。
だって、内臓が壊れかけていても、肋骨が折れていても、手足がちぎれかけていても、痛くないんだから。
痛くなければ、何の手当もしないし、破壊された箇所に強い負荷をかけ続けることも止めないのだから、痛んだところはそのまま壊死してしまう。
病気だって機能はそれと同じである。
風邪はシステム不調の「パイロットランプ」のようなものである。

「お疲れでっせ、ぴっぴっ」

という貴重なサインなのである。
せっかくのサインなんだから、これをむりやり抑え込んだり、黙らせたりしてはいけない。
しずかに指示に従って、おとなしくお休みするのである。

今日は一日パジャマのままごろごろして、食べたいものだけ食べ、寝たいだけ寝て、読みたい本を読む。
ベッドで、魯迅『阿Q正伝』、『古事記』(橋本治訳)、『徒然草』(オリジナル版)を読む。(なんだか中学生の課題図書みたいな選書である)
『徒然草』はほんとうに面白い。
受験生のころに読んだときは「こうるせーおやじだ」と思っていたが、知命を超して読むと、兼好法師って「理念的におやじ化している、ほんとはミーハーな青年」だということがよく分かる。(「ヴァーチャルおじい」というのはこのことだね)
だけどこの人の「一回ひねり」のロジックと、「変な出来事についての逸話収集癖」は好きだ。
鉄の鼎を頭にかぶって興に乗って舞ったのはいいが、抜けなくなって、力任せに引き抜いたら、結局耳も鼻ももげてしまったと法師の話は、わが身を顧みて切々と胸に迫るものがある。
寝ころんで読んだなかでいちばん気に入ったフレーズはこれ。

「狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり。悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり。驥を学ばば驥の類ひ、舜を学ぶは舜の徒なり。偽りても賢を学ばば、賢といふべし。」

驥(き)とは千里を走る名馬のこと。
700年前に兼好法師は「実存は本質に先行する」というサルトルを先取りしていたわけである。
あと、好きなのは八十八段。

「或る者、小野道風の書ける和漢朗詠集とて持ちたりけるを、ある人、『四条大納言撰ばれたるものを、道風書かん事、時代や違い侍らん。おぼつかなくこそ』といひければ、『さ候へばこそ、世に有り難きものには侍りけれ』とていよいよ秘蔵しけり。」

和漢朗詠集の撰者四条大納言藤原公任は997年生まれ。三蹟の一人小野道風の没年は996年であるから、「小野道風の書ける和漢朗詠集」というのは、『火焔太鼓』の「小野小町が鎮西八郎為朝に送った手紙」の類である。
「『さ候へばこそ、世に有り難きものには侍りけれ』とていよいよ秘蔵しけり」というふうにさらっと落とすところもまるで落語である。
こういう「語り」のパターンというのは、千年くらい前からぜんぜん変わっていないのである。

ほかにもいろいろと面白いところがある。
百十五段は敵討ちの話。
武蔵国宿河原で「ぼろ」という人たちが暮らしている。そこに同じ仲間の「しら梵字」という人が「いろをし房」という人を訪ねてくる。
「私がいろおし房だが、何か用か」と問うと、
「己が師、なにがしと申しし人、東国にていろをし房と申すぼろに殺されけりと、承りしかば、その人に遭ひ奉りて、恨み申さばやと思ひて、尋ね申すなり」と言う。
これに対して「いろをし房」は「ゆゆしくも尋ねおはしたり。さること侍りき」とて、前の河原に出てふたりで存分に斬り合い、ともに果てたというエピソードを紹介したあと、こう書き加えている。

「ぼろぼろといふもの、昔はなかりけるにや。近き世に、ぼろんじ、梵字、漢字などいひける者、その始めなりけるとかや。世を棄てたるに似て我執深く、仏道を願ふに似て闘争を事とす。放逸、無慙の有様なれども、死を軽くして、少しもなづまざるかたのいさぎよく覚えて、人の語りしままに書き付け侍るなり。」

兼好の生きた南北朝のころは、網野善彦によれば「後醍醐ルネッサンス」の時代で、非人、海賊、山伏、悪党、河原者、遊女など、「異類異形」の「婆娑羅」たちが津々浦々にわらわらと叢生したと言われている。その実体について知られるところは少ないのであるが、『徒然草』に出てくるこの「ぼろぼろ」は、そのエートス(「死を軽く見て、すこしも固執しない様子の潔さ」)が何となく近世の「渡世人」を思わせる。
もし『昭和残侠伝』的なエートスは13世紀ごろに始まったのだとすれば、それはどういう経路をたどって今日まで継承されたのであろう。
また網野のよれば、これらの「異類異形の人々」は「天皇の直属民」という不思議な社会的地位を占めていたとされる。(後醍醐天皇がこれらの「異類」を総動員した一大権力闘争を仕掛けたのが、いわゆる「建武の中興」である。)
だとすれば、「やくざ」は「天皇直属の聖なる賤民」という始原の刻印をいまだにどこかにとどめていても不思議はない。そういう研究もきっと誰かがやっているのだろう。
『昭和残侠伝』の再発見以来、なんとなく、このところそういう「遊行者の系譜」のようなものに興味が出てきて、関連文献をいろいろと買い込んでぱらぱらと読んでいる。
というわけで、今日はこれから寝ころんで青山光二の『極道者』を読む。