4月11日

2002-04-11 jeudi

いよいよ授業開始。
最初は大学院の『映画の構造分析』。このネタはもう大学でやるのは三度目である。
フルタくんもアキエダくんもたぶんこれで三度目の聴講なのであるが、同じネタを毎度聴きに来る。きっと志ん生の『三軒長屋』を聴きに来るような気分のものなのであろう。
映画論に入る前に、まず「物語論」をまとめてしまおう、というのが今回の課題である。
今週、T摩書房から新書の依頼があった。なんのあてもないままに「はいはい」とお引き受けしてしまってから、ネタがないので困っていたが、「物語論」というのはまだ一度も主題的に書いたことがないことを思い出した。(『映画は死んだ』でちょこっと触れたし、『映画の構造分析』(昭文社からそのうち刊行予定)では一章を割いているけれど)
おお、これはよい考えだ。
私のナラトロジーは、ジュネットのやるような数理的な「ハイテク・ナラトロジー」ではなく、もっとずっと手作業的でアーシーな手法なのであるが、いちおう系譜学、神話学、記号学、精神分析などを動員した、「それなりに」学術的なものなのである。(『「おじさん」的思考』の漱石論とか、『ため倫』のカミュ論とかをお読みいただければ、ウチダ的ナラトロジーというものがどんな感じかはお分かりいただけると思う。)
大学院のノートがそのまま次の本の資料に使える。
ウチダはなにごともムダにしない。


ためらいの倫理学

天皇制について書くので最近の天皇制をめぐる議論について資料を送って下さいとお願いしたら、共同通信の片岡さんが、関連資料として島田雅彦の『美しい魂』の出版延期についての文章をファックスで送ってくれた。
島田の小説の内容がどういうものだか知らないけれど、天皇家を題材にした恋愛小説であるらしく、これについて右翼の出版妨害やテロを想定して、出版が延期されたのである。この事件について、出版社と作者の緊張しているようすが行間からうかがえる文章であった。
島田によると、深沢七郎の『風流夢譚』に発した嶋中事件、大江健三郎の『セブンティーン』事件、朝日新聞阪神支局襲撃事件などの右翼テロ以後、メディアの側が天皇制にかかわる言説に対しては過敏になっており、表現の「自粛」というかたちでの言論弾圧が無言のうちに制度化されているそうである。
島田が書いていることはやや興奮ぎみで論旨が乱れていてよく意味がとれないのだが、右翼のテロは、作品そのものの内容にダイレクトに触発されて起こるのではなく、皇室問題という「虎の尾を踏んだ」作品が出たことを「女性週刊誌」やスポーツ新聞やTVのワイドショーのようなメディアがおもしろおかしく取り上げて、スキャンダル的に話題に乗せると、その話題に反応して右翼が動き出すことになる、という予測にはなるほどと思った。
どのような党派的な立場にあるひとでも、自説に反対する意見を探して、まさか日本中の出版物を全部チェックするわけではない。
メディアが「話題」にして、わいわい騒ぎ出したときにはじめて敵対する陣営はそこに標的があることを知るのである。
私がこんなところで何を書こうと誰を批判しようと、誰ひとり反論もしてこないのも理由はそれである。
だって、私の議論をばしっと反論して、「私はウチダを批判し切った」なんていばってみて、周りの人々が「ウチダ? 誰、それ?」というのでは、まるでむなしいからである。
逆に、私が何者であれ、ひとたびメジャーなメディアで「承認」されてしまうと、とたんに自薦他薦、無数の論敵による反論の嵐にさらされることになる。
「首に懸賞がかかる」からである。
島田雅彦がほかのメディアにむかって言っていることは、自分の首に懸賞をかけるような報道をしないでほしい、あくまで作品の文学的価値に即した議論にとどめていただきたい、ということである。
なるほど。気持ちはよく分かる。
しかし、それはやはり無理なお願いだという気がする。
マスメディアの効果とは、要するに「ひとの首に懸賞をかける」ということだからである。
メディアが誰かを「高みに押し上げる」のは、そうすれば「そのひとの没落を切望するひと」が大量に発生し、その没落を正当化し加速する種類の情報の値が高騰する、ということを知っているからである。
島田雅彦は「メディア的に話題になりたいが、首に懸賞はつけられたくない」と言う。
それは「やせたい、でも食べたい」と同じ無理なお願いのような気がする。