4月10日

2002-04-10 mercredi

毎日のようにいろいろなところからお仕事の依頼がある。
2年前の夏にはじめて鈴木晶先生と三宮でお会いしたときに、先生から「ウチダ先生、じきに仕事の依頼がどかどか来るようになりますよ」と断定的に予言されて、「ほんとすかー」と半信半疑のマナザシを向けたウチダであるが、鈴木先生の予言はほんとうに当たってしまった。
ウチダは長いことまったく仕事の依頼がない「日干し状態」にあり、「このまま無名の一研究者として死ぬのね」と諦観していたので、仕事のオッファーがあると、その人の顔が「天使」に見えて、うれしくてなんでも「はいはい」と受けてしまう。
去年からこちら断ったしごとは日程があわなかったシンポジウム一つだけである。
原稿ものはすべて受けている。
だから、なんだかすごいことになっているが、別にそれほど困っているわけではない。
どうせ、こんなのが長く続くはずはないからである。
今年一年は受けるだけ仕事を受けるが、来年になったらすべてお断りする方針である。(もう新しい仕事なんか来ないかもしれないし)
私の書いているものの内容は「全部、同じ」である。
「全部、同じ」なんだけれど、他の人の言うこととはちょっと違うので、今は珍しがられている。
でも、いずれ飽きられる。
他人に飽きられるより先に、自分が飽きる。
そんな日が来る前に、さっさと自分から店を畳んで、また「売れない翻訳」と、「誰も読まない身辺雑記」のお気楽な書き手に戻るのである。
そういう「期間限定もの書き」なので、いまのところは「この一行は唯一無二の一行なり」と宗方コーチの呪文を唱えつつ、来る限りの注文原稿をすべて「ほいほい」引き受けばりばり書く。

共同通信から「憲法記念日」のために憲法についてのエッセイを求められたので、天皇制について書きますとご返事をする。
「天皇制」についての私見を新聞に書くというのは、ほとんど自殺行為である。
何を書いても、ぜったいに怒る人や傷つく人がいるからである。
でも書く。
物書きとして息長く仕事をしたければ、そういうリスキーなことはしない。
しかし、私は「私の言いたいこと」を言うために書いているのであって、別にそれでご飯を食べているのではない。(ご飯は、学生相手に豆知識をご披露して、フランス語と合気道を教えていると食べられる)
物議をかもすようなことを書いて、それで原稿がボツになったり、どこからも原稿依頼が来なくなっても別に困らない。
どうせ来年になったら「隠居」しちゃう「期間限定もの書き」なんだから。

というわけで、私はいま日本の「論客」諸氏の中でも例外的に「さきのことを考えない」でものを書いている人間である。
妻子がいたらなかなかそうもいかない。

「父ちゃんがバカなことを新聞に書くから、学校でいじめられた」
というようなことになると子どもに会わせる顔がないが、さいわいるんちゃんはもう遠くで楽しくやっている。

幸運にも妻は存在しない。(妻なんかいたら、HPにこんな日記を書くこと自体、毎日が命がけだ。)

業界的に守るべき「立場」やら「メンツ」というようなものは、もともとない。
学内的には「ウチダさん? あの人のこと話題にするのやめません?」ということについてはただしく学内合意が形成されている。
私がその人の逆鱗に触れることを畏れ憚る老師のうち、レヴィナス先生はすでに幽冥境を異にされているし(第一、日本語読めない)、多田先生は私の書いたものを読むほどお暇ではない。
あと畏れ多いのは父親であるが、父は私を善導することをすでに36年前にあきらめているので、小さなため息をつくくらいで済む。
というわけで、今のウチダは日本言論界にもレアな「怖いものなしの人」なのである。